『オセロ』を読むと嫌な気持ちになる、と漱石が感想を述べているが、まさにその通りである。まったく火のない所に煙をたてようとし、舌先三寸で人をだまし、他人の人生を狂わせる。こんな悪(ワル)が居ることを、目の前で見せられて気分が悪くなるのである。
オセロはヴェニスの将軍である。数々の勲功をたて、将軍として市民から尊敬されている。ただオセロはムーア人という設定である。ムーア人は北アフリカの原住民とイスラム教徒の混血であり、肌の色は黒から茶褐色までさまざまに想像されている。しかしドラマでオセロの肌の色が問題にされることはない。悪口を言われるとき、黒と地獄と連想で言われるくらいである。
イアゴはオセロの旗手である。オセロの副長に、自分が選ばれると期待していたが、同僚のキャシオが任命されて落胆している。そのため、オセロを恨むようになり、仕返しをしようとたくらむのである。丁度、デズデモーナという若い女性がオセロに恋をし、一方的にオセロの元に走った。イアゴはこの年は違うが熱い新婚の仲を裂くことによって恨みを晴らそうとする。そのためオセロを嫉妬に狂わせようとたくらむのである。オセロは武人であり、人生経験も相当あり、嫉妬という感情からは遠い人と思われるが、イアゴはあの手この手の口先ひとつで、オセロに嫉妬の火をたきつけるのである。
イアゴは何故こんなことをするのであろうか。その動機をたどると、自分が副長に選ばれなかったことの他に、伏線として、自分の妻エミリアがオセロと浮気しているのではないかと疑っている。まったくこうした事実はなく、イアゴだけが思い込んでいることである。それでオセロに自分と同じ苦しみを味わわせよう、とたくらむのである。もうひとつはキャシオに対する劣等感である、自分は軍事に関する能力はキャシオより上だと思っているが、キャシオの紳士として洗練された立ち居振る舞いは、イアゴはとても叶わないと認めている。キャシオが生きていては、自分は永久に劣った人間であることを自認し続けなければならない。それはイアゴにとっては、我慢できないことである。さらにキャシオは自分の妻と通じているのではないかと疑っている。これもオセロの場合と同様事実無根で、イアゴだけの思い込みである。それでキャシオの死をたくらむのである。こうして並べると分かるように、イアゴは相当に疑い深い性格で、これは劣等感の裏返しであろうか。自分の苦しみを他人にも味わわせようとする。
イアゴはオセロに嫉妬心をたきつけるのに、あからさまに嘘を言うのではなく、何気なく暗示するように言葉の節々にそれとなく匂わせるように投げかける。全部を言わず、思わせぶりなことを口にし、またオセロがイアゴは正直者だと頭から信じているそこを利用する。ここで読者はそれまでのいきさつが書かれていないから、イアゴのような悪がどうして honest という評判を勝ち得たか分からない。オセロからは honest Iago と呼ばれている。イアゴがそれを演じて実績を作ったのだろうと想像するしかない。オセロはそれを頭から信じている。将軍として部下の性格をしっかり見ることができなかったのである。人の上に立つ者としてはなんともお粗末である。世界各地を渡り歩き、さまざまな経験を積み、人として出来上がっているように書かれているオセロであるのに。
イアゴは自分勝手で狭量である。他人の心理を読み巧みに利用することに鋭敏であるが、一方自分が作り出した迷路に入り込もうとする傾向にある。架空の現実の中で、一人妻のエミリアのみがしっかりした常識を備えており、ドラマのなかでその言動は唯一正気である。エミリアの率直な発言は周りの者を正気にさせる契機になりうる要素を持っている。一方、イアゴは精神分析の対象とすべき性格である。
劇中、生き生きした人物として描かれているのは、イアゴである。オセロでもデズデモーナでもない。イアゴは特異な性格といっていいだろうが、実際世の中にイアゴ的な人間がいるだろうか。わたしはヒットラーを思い出している。ヒットラーも詰まるところ、政治思想でも民族主義でもなんでもない、ヒットラー個人の特異性格がドイツ人民をだまし引っ張っていったのである。どちらも、自分が正当に評価されていないという思いと、そのため世間を見返してやろうという劣等感と、巧みな弁舌で押し通したのである。してみると、イアゴはヒットラーの先駆者として見た方がいいのかもしれない。