Macbeth

マクベスのあの世はどこへいったか

マクベスは、恐れを知らぬ勇猛な武人として登場する。これは最初から最後まで一貫して変わらない。戦場で戦うことにおいては恐れを知らず強く勇敢である。しかしバンクォウとともに凱旋して帰ってくる途中で魔女に会い、コーダの領主になり、さらには王になると予言されると、それを即座にそのまま信じ込み、王になるためにはダンカン王を殺さねばならぬと想像し、恐怖に襲われるようになる。

This supernatural soliciting
Cannot be ill, cannot be good: if ill,
Why hath it given me earnest of success,
Commencing in a truth? I am thane of Cawdor:
If good, why do I yield to that suggestion
Whose horrid image doth unfix my hair
And make my seated heart knock at my ribs,
Against the use of nature? Present fears
Are less than horrible imaginings:
My thought, whose murder yet is but fantastical,
Shakes so my single state of man that function
Is smother'd in surmise, and nothing is
But what is not.(1.3)
あの超自然的なものの誘いは
悪いはずがない、良いはずもない。もし悪いのなら
なぜ本当のことを先にだして、
成功の手付けを与えたのか。わたしはコーダの領主になったのだ。
もし良いのなら、わたしは何故この誘惑に圧倒されているのか、
恐ろしい心の光景に髪は逆立ち、
しっかり据わった心臓の鼓動が、自然の働きに逆らって、
あばら骨を打っている。今の恐怖は
想像の恐ろしさに及ばない。
あゝ、ダンカンを殺すのはまだ想像にすぎないのに、
わたしの胸の思いは、あれこれの惑いのなかで
息が詰まりそうなわたし自身を揺さぶっている、
在るのは無いものばかりだ。

この時点では、予言は「悪いはずがない、良いはずもない」と感ずる平常心が少しは残っているが、気持ちは一途にダンカンを殺すことに傾き、自分の想像した恐怖に圧倒されている。nothing is But what is not (在るのは無いものばかりだ)という独白は、ダンカンを殺す想像の恐ろしさ以外に何も頭を占めていない様子を表す言葉である。マクベスの感受性はほとんど病的ですらある。マクベスは直情径行の人であり、気性は素朴である。王になりたいという潜在的野心はあったが、それに自分では気づいていなかったようである。魔女の予言で目覚めて、野心が一気に噴出したのである。これは同じ予言を一緒に聞いていたバンクォウが、魔女の予言に疑いの心を持っていた慎重さに比べると対照的である。

しかしマクベスはダンカンを殺すことに逡巡する。これはマクベス夫人が語るようにマクベスに人間的感情が残っていてそれが実行することをためらわせているのである。

yet do I fear thy nature;
It is too full o' the milk of human kindness
To catch the nearest way;(1.5)
しかしあなたの性格が心配だ。
一気にやるには、
あなたには、人間の優しさというミルクがあふれている。

こうした人間的感情のほかに、マクベスを逡巡させ、恐怖を起こさせているものに、あの世への懸念があった。この世で悪を犯せば、あの世の恩寵はないだろうとの思いである。そのことをマクベスは次のように告白している。

If it were done when 'tis done, then 'twere well
It were done quickly: if the assassination
Could trammel up the consequence, and catch
With his surcease success; that but this blow
Might be the be-all and the end-all here,
But here, upon this bank and shoal of time,
We'ld jump the life to come. But in these cases
We still have judgment here; that we but teach
Bloody instructions, which, being taught, return
To plague the inventor: this even-handed justice
Commends the ingredients of our poison'd chalice
To our own lips. (1.7)
もし、やるべき時があるのなら、
今すぐやったほういいだろう、
もし、暗殺で一切のけりがつくなら、
それで栄光が掴(つか)めるのなら、
この世のこの一撃で、一切合財の始末がつくわけだ、
しかしこの世で、この瞬間に賭けて事を起こせば、
あの世の恩寵は望めないだろう、
この訴訟にはすでにこの世で判決がでているのだ、
血の決着を教えた者は、そのことにより、
めぐりめぐって、自分が血まみれになる、この公平な正義の神は、
毒殺を謀(はか)った者に、毒盃を飲むようにしむける。

こうしてマクベスは一旦はダンカンを殺すことを思いとどまる。秤にかけて、あの世はおろかこの世においても、悪を犯す方に利がないと判断したのだ。ここでのマクベスの思考はかなり理詰めであり平常心を保っている。ところが、マクベス夫人はマクベスの信じやすい気性に訴え、男らしくない、臆病者と叱咤して、マクベスを翻意させてしまう。マクベス夫人は野心を達成することがすべてであり、その目的にまっしぐらに突き進む。そこには人間的逡巡はかけらもない。マクベス夫人に人間的感情が残っていたと読者が感じるのは、彼女が気がふれて夢遊病でさ迷うようになってからである。マクベス夫人にも人間的感情があったのだと読者が感じるとき、夫人に同情し哀れを誘うのである。マクベスに感じる魅力も、冷血漢の夫人が哀れを誘うのも、そこに人間的葛藤が生じているときである。そこに面白さを感じるのである。しかし、あの世の懸念も、マクベスが悪の道へ転がり落ちてゆくのを引き止めるだけの力がなかった。あの世の懸念はおろか、応報の報いが来るというこの世の知恵も捨てて、迷うことのない悪人になってゆく。

さて劇中にあの世の懸念のみに生きた人の話が出てくる。ダンカンの妃であり、マルコムの母である。名前は出てこないが、信仰心厚い人として次のように紹介されている。

the queen that bore thee,
Oftener upon her knees than on her feet,
Died every day she lived.(4.3)
あなたを生んだお妃はいつも神にお祈りし、
毎日最後の裁きに向きあう実に敬虔な方だった 。

ここでの表現はこの世に生きている人ではなく、あの世の恩寵だけを思って敬虔に生きている人の姿である。ダンカンの妃に読者が魅力を感じないのは、そこには人間的なものがないからである。ダンカン王の妃は、人間ではなく人形のようである。

王になってからのマクベスは、自分を悪人と自覚し、また恐怖政治を敷いて悪の権現のように描かれている。

Things bad begun make strong themselves by ill.(3.2)
悪で始まったことは、さらなる悪で強くなるのだ。

それと同時にマクベスからは、あれほど悩まされた恐怖もすっかり消えうせてしまった。葛藤に悩む人間ではなく、マクベスはただの悪人になっていくのである。読者はそこからは、ドラマの筋は追うが、もはやマクベスに魅力を感じない。

I have almost forgot the taste of fears;
...
I have supp'd full with horrors;
Direness, familiar to my slaughterous thoughts
Cannot once start me. (5.5)
わしはすっかり恐怖の味を忘れてしまった。
・・・
わしは恐怖をたっぷり食べ過ぎたのだ、
恐怖は、殺人狂にはなじみの感情だが、
もうわしを怯(おび)えさせることはない。

こうして悪人を自称してからのマクベスからは、前半ではあれほど読者を引き付けた魅力がなくなってしまう。 それは、悪人になったからではなく、マクベスに人間的葛藤が見られなくなったからである。

また、一度は考慮の対象になったあの世の懸念も、そのときかぎりで、その後マクベスを動かす誘引にはなっていない。総じてキリスト教的信条は、このドラマのどの登場人物にもどの科白の端にも表れていないように思われる。