神はだんだん遠のいていく
1633年の六月、ガリレオは法王庁の検邪聖省というところで異端の罪により有罪の判決を受けました。それは彼が『天文対話』
を著した次の年のことです。このときの判決文は、彼が告発された次第をこう書いています。
「被告ガリレオは、一部の者の教えた偽りの学説、すなわち太陽は世界の中心で不動、地球は動き、しかも自転する
という学説を、真実であると信奉し、また弟子をとってこの説を教え、この説にかんしてドイツの一部の数学者と文通
✽し、さらに「太陽の黒点について」なる書簡を
出版し、そのなかでこの学説を
真実であると詳説した。あまつさえ、それらの説に対して聖書にもとづいてなされた反論に応酬しようとして、被告は聖書を
自己流にこじつけて解釈した。以上が被告に対する告発の理由である。」
✽ 蛇足を加えますと、この「ドイツの一部の数学者と文通し」とある
のは ケプラーのことではないでしょうか。この二人の間にはたしかに文通はあったのです。
実をいうと、最初にこの告発があったのは1633年より十数年も前のことだったのだそうですが、そのときは穏便に計らう
がよいという鳩派の議論が優勢で結局裁判にはならなかったようです。ところが『天文対話』の出現が教会の鷹派や学界の旧守派
をはなはだしく刺激してこの裁判になったらしいのです。判決文ではそういういきさつが詳細に述べられ、異端審問官たちの
見解がながながと記録されていますが、ここではそれらをとばし、いっきょに最後の判決のところを紹介します。そこではこう
述べられています
「以上によって検邪聖省は、強い異端の嫌疑を被告にもたらした偽りの学説は聖書に違背するものだ、
とかって宣告され明示されたにもかかわらず、被告はなおその学説を信奉し、弁護してもよいと考え、かつそれを信奉した
嫌疑がきわめて強いと判断する。従って、かかる犯罪者に対して教会法その他の法規において告示されている刑罰のすべて
を招く結果になったことをここに判決し宣告する。」
この告発理由をみると二つの点が問題になっているようです。一つは地動説を真実であると信奉しそれを他人に鼓吹したこと、
一つは、聖書にもとずく反論に応酬するため聖書を曲解しかつそれを主張したこと、この二点です。
この第一の点にかんしては、地動説というものは真理の主張でなく仮説であると考えるべきだ、というのが教会の許容限度
であったようです。第二の点、すなわち聖書の曲解ということはガリレオの次の主張を指すのでしょう。これは彼が庇護者
トスカナ大公の妃にあてた「クリスティーナ大公妃あての書簡」のなかにある文句です。
「・・・聖書も自然と共に神の言葉から出ており、前者は聖霊の述べたもうたものであり、後者は神の命令に
よって注意深く実施されたものであります。従って、聖書におきましては、一般的な理解に資するために、章句の裸の意味
にかんするかぎり、絶対的な真理とは異なる多くのことが述べられています。これに反して自然は、これに課せられた法則の
言葉を超越するようなことはありません。・・・神は聖書の尊いお言葉のなかだけでなく、それ以上に、自然の諸効果のなかに、
すぐれてそのお姿を現したもうのであります。・・・
すなわちガリレオにとっては、神の啓示は聖書を通じて語られた聖書のなかだけでなく、神の創造物である自然の動き
そのもののなかにあるのです。そして前者では一般の人々に理解されるような言葉が用いられており、後者では特殊な人々の
刻苦によってはじめて理解される言葉が用いられている。従ってそこには、一見通常の言葉で語られたこととちがって見える
ものが現われるかもしれない。しかしそれをもって後者が偽りであるということはできない。そしてさらにガリレオはつけ加えます。
「・・・聖霊の御意思は魂の救済すなわち天界にどのようにしていくかを教えることであって、天界が
どのように運行しているかを教えることではありません。」
つまり彼は魂の救済と天文学との守備範囲を分けるべきだと主張したわけですが、これが聖書を自己流に
こじつけた解釈といわれたのでしょう。
ところがガリレオの自己流にこじつけだと非難されたこの聖書解釈を、期せずしてケプラーも行っているのです(ちなみに
ケプラーはガリレオとちがって新教の信者でした)。彼は『新しい天文学』のなかでこういう趣旨のことをいっています。これまで
少なからぬ人々が信仰上の理由でコペルニクスに同意することを阻害されている。すなわちそれらの人々は、地球が動いており
太陽が静止している、と出張することが聖書に書かれている神の精神が偽りであると非難することになるのを恐れているのだ、と。
「しかし」といって彼はつづけます。「聖書は人間に高貴なもの崇高なものを伝えるために、人間同士の間で一般的に知られている
ものを使っている」のであり、たとえば詩篇第104章においては「神がその基礎の上に地球を創り出したのであり、この基礎は
永遠に不動であろう、と述べられている」が、これは詩篇作者が物理を論じようとしているのではなく「詩篇作者は全能の神の
偉大さに帰依しており、創造神に賛歌を詠じているのである。その賛歌のなかで詩篇作者は、世界がどのように眼に映じたか
についてあらゆる事物を一つ一つかぞえあげているのである。・・・そしてそれを通じて、神の創造物に見られる力強く、不動な、
そして強固な、神の偉大さを人間に思い出させようとしたのである」と。
そしてさらにつづけてこう書いています。
もし一人の天文学者が、地球は星々の間を通りぬけて、かなたへ運ばれるのだと教えるならば、彼は詩篇作者
がここで述べていることをくつがえしてもいないし、その人間的経験を破壊してもいないのである。なぜならば、われわれの建築物
は老朽すると崩れ落ちるのが常なのであるが、世界建築師、神の作品である地球は崩壊しないこと、地球は横にもかしがないし、
生物のすみかはきちんとしており、山々と海岸は最初からあったように、風波の衝撃に対して確固としているということなどが
が真実だからである。・・・
最後にニュートンですが、彼の考えかたはガリレオ、ケプラーのそれとかなりちがっていて、時代の変化をわれわれに
感じさせるものがあります。では『プリンキピア』の終わりで彼がいっている言葉を聞きましょう。
「この太陽、惑星、彗星の壮麗きわまりない体系は、至高至知の存在の深慮と支配とによって生ぜられたのでなければ、
ほかにありえようがありません。また恒星が他の同様な体系の中心であるとしたなら、それらも同じ至知の意図のもとにつくられ、
すべて「唯一者」の支配に服するものでなければなりません。わけても恒星の光は太陽の光と同一の本性を持ち、あらゆる体系は
あらゆる体系に、互いに光を送りかわすからです。しかもこの恒星を中心とする諸体系が、それら自身の重力によって互いに
落下することのないよう、これらを互いに限りないへだたりに置きたもうたのでした。」
これを読んでわかることは、ニュートンにおいて、宇宙には天球もなく中心もなく、そこはもろもろの恒星がばらまかれた
無限の空間であり、天動、地動の争いのごときものは、もはや蝸牛角上の争いに見えるほどそれは壮大なものです。彼にとっては、
太陽といえども、宇宙の中心に存在する特別な天体ではなく、それは無限に多く天界にちらばっている恒星の一つに過ぎない
のです。そしてまた、それら恒星の一つ一つにもおそらくはそれをめぐる惑星が属しており、地球はそれら数かぎりない惑星
の一つなのです。そして彼にとって偉大なのは、この壮大な宇宙の創り主である「唯一者」であって、それは、「わが神、
なんじらの神、イスラエルの神、神々の神、主の主」といったものではなく、「永劫より永劫に持続し、無限より無限に偏在する、
至高至知の存在」なのです。
ニュートンのいう神はもはや教会の教義で考えられるような神ではなく、また彼にとってキリストは宗教的天才ではあるが
神の子ではなく、聖書は尊い内容を持つ貴重な教えであるが、聖霊によって伝えられた神の啓示ではない、これがニュートンの
考えかただといわれています。つまり彼は神の存在を信じるけれど、神、神の子、聖霊の三位一体を信じない、いわゆる
ユニテリアンであったといわれます。このような考えを持つニュートンが異端者として宗教裁判にかけられることもなかった
のは、半世紀の間に、教会と科学との守備範囲を、ガリレオの線に沿って確立せざるをえなくした歴史の力のあらわれだと見る
ことができるでしょう。
『物理学とは何だろうか』(朝永振一郎著 岩波新書(上)「第T章 4 科学と教会」より)
ここにはすでに旧約聖書の神はいない。しかし、ルネッサンス期に太陽系やその先に拡がる宇宙を想像できるまでに
科学の知見を得た人々には、知れば知るほど宇宙の仕組み、その壮大さ、精妙さに驚きの念が起こり、誰がどのように創造したにせよ、
誰かが創造しなければこの宇宙は生まれなかった、との思いは消えなかったのだろう。
創世記は次の言葉ではじまる。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。( 創世記 1章 1-3節)
現在の宇宙論に照らしあわせても、この章句は、はからずも、正しいと思う。ただ順序が違ったのだ。初めに光があり、そして天地
すなわち物質が創生されたのだ。
※ なお『神はだんだん遠のいていく』というこのページのタイトルは、管理人が付けたものです。
この本についているものではありません。(管理人)