『かくれた次元』(エドワード・ホール著 日高敏隆・佐藤信行共訳 みすず書房 1970年初版)を読んだ。
著者はアメリカの文化人類学者。動物の行動観察や実験記録の紹介から始まって、人間には各人の固有空間ともいえる個体距離があり、
それは民族によって異なるという。ユニークな見方で、大変面白かった。著者はその距離を四つに分けて、密接距離・
個体距離・社会距離・公衆距離として説明する。学生時代の恩師が言っていたことを思い出した。イギリス人は、決して人の歩いている
前方を横切らない。歩いている人の前の空間は、その人の空間なのである。
先日書店に行って見ていたら、この本がまだ書架にあった。息の長い本である。読む人は読むという名著なのだろう。
同じ著者で『沈黙のことば』をいう書も邦訳されているそうである。こちらも題名からして面白そうである。
ここではそれぞれの民族(ドイツ人、イギリス人、日本人等)の個体距離の特徴が述べられているなかで、
特にアラブ人に関するものが鮮やかに観察・分析されていて面白かったので、引用しました。
この長い引用の最後で、著者は次のように言っている。
自分らの考えを形づくっている文化的鋳型をすこしでも意識している民族は、現在の世界にはほとんどいない。
してみると、一連の日本人論を日本人や外国人が書き、また日本人が好んで読むことは、あながち無駄なことともいえない。
かえってそれは大いに推奨されるべきことであろう。島国のなかで自分たちの文化的鋳型を意識することは、必要なことなのであると思う。
(管理人)
個体距離について — アラブ人の場合
2000年以上も接触しているにもかかわらず、西洋人とアラブ人はまだ互いに理解しあっていない。・・・
公共の場での行動
公共の場で押したり突いたりすることが、中東文化の特徴である。しかしこれは必ずしもアメリカ人が思うように、あつかましく
無礼な振舞いなのではなく、人々の関係や、人が身体をどのように経験するかなどについて、まったく異なった一連の仮定をもっている
ことに端を発している。逆にアラブ人の方でも、北ヨーロッパ人やアメリカ人をあつかましいと考えている。私が研究をはじめたとき、
この二つの見方を大変不思議に思ったものだ。アメリカ人は脇に寄って避けているのに、なぜあつかましいと思われるのだろう。
私がアラブ人にこのパラドックスを説明してくれるようにくりかえし頼んだが、私の面接したすべてのアラブ人が、アメリカ人の行動の
どこがいけないのかを答えることができなかった。しかも彼らはみな、その印象がアラブ人の間にひろがっていることを認めた。
この特殊な点からアラブ人の認識世界に対する洞察を得ようとくりかえし試みては失敗した後、私はこれを時のみが解決する問題として
綴込みの中へ加えてしまった。答えが出てみると、その問題は見たところ理屈ではわからない困難さに由来していたのである。
私はワシントンD.Cのホテルのロビーで友人を待っていて、姿が見えなくては困るが一人にもなりたかったので、通行の流れの外に
離しておいてあった椅子に腰を下ろした。このような場合、アメリカ人は一つの規則に従う。この規則はそれをわざわざ考えたりする
ことがないだけに、それだけ拘束力が強い。それは次のようのいい表すことができる。人が公共の場で立止まり、腰を下ろしたら、彼の
回りにはプライバシーの小さな空間ができたのであって、これを侵してはならないということである。その圏の大きさは、混雑の度合、
年齢、性、その人物の重要性、一般的な環境などによって異なる。この圏に入って、そのまま立止まるものは侵入者である。実際に、
たとえ特別な理由があるにせよ、その中に入ってくる人はまず最初に、「すみませんが、ちょっとお伺いできませんか・・・」と前置き
する。これは他人の邪魔をしていることを認めているからである。
話を元へ戻すと、私が人のいないロビーで待っていると、知らない人が私の座っている場所へ歩いて来て立止まったが、それが
あまり近くなので、手で触れられるだけでなく、息の音さえ聞こえるほどだった。さらに暗色の彼の身体が私の視覚の周辺部の左側を
覆ってしまった。ロビーがいっぱいだというなら、彼の行動も理解できるが、空のロビーでこんな振舞いをされるのはきわめて不快だった。
この邪魔にいらいらして、私は身体を動かしていらだちを伝えようとした。ところが不思議なことに、彼は立去るどころか、私の動作で
元気づけられたかのように、もっと近くへ寄って来る。この煩わしさを逃れたいとは思ったが、「とんでもない、なんでぼくが動くんだ。
先に来たのはぼくなんだから、この男が大蛇だろうと、追払われたりしないぞ」と考えて、持場を逃げるのはよそうと決心した。
幸いにも間もなく一群の人々がやって来て、私の敵はすぐさまそれに加わった。彼らの性癖から、彼の行動の説明がついた。ことばと身振り
によって、彼らがアラブ人だとわかったからである。相手が一人でいる時に、この決定的な発見ができなかったのは、彼が話しかけなかった
し、アメリカ式の服装を着ていたからであった。
この場面を後になってアラブ人の同僚に話したら、二つの対照的な型が浮かび上がってきた。「公共」の場における私のプラバシー
の圏に関する観念と感情を、アラブ人の友人は奇妙で不思議だと受けとったのである。彼はいった。「結局のところ、それは公共の場
なんでしょう?」この線に沿って質問を続けていって判明したのは、アラブ人の考えでは、私がある場所を占めているからといって何の
権利も生じはしないということであった。私の場所も私の身体も不可侵だというわけではない。アラブ人には、公共の場における侵入
などというものは存在しないのだ。公共の場はやはり公共の場なのである。この洞察によって、不可解だったり、いらいらさせられたり、
ときには恐怖感をいだかせたりしたアラブ人の行動の多くが意味をもつようになった。たとえば、Aが街角に立っていて、Bがその場所を
欲しいと思う場合、BはAを不快がらせてそこをのくようにさせるため、何をしようとかまわないのである。ベイルートでは、映画館の
最後列に座っていられるのは頑固者だけである。というのは大抵は座りたがりたがっている立ちん坊がいて、そいつらが押したり突いたり
して邪魔をする。普通の人はそれに降参してどいてしまうからである。こうしてみると、ホテルのロビーで私の場所に「侵入」して来た
アラブ人は、明らかに私と同じく、そこから二つのドアとエレベーターがよく見えるという理由から、その場所を選んだのである。
私が彼を追い払う代わりにいらだちを示したので、彼はかえって勢いづいた。もうすこしで私をどかせられると考えたからだ。
アメリカ人とアラブ人の間に摩擦のおこる意識化されていないもう一つの理由は、アメリカ人がきわめて非公式に取扱う領域
—道路上での作法と権利の中にある。合衆国ではより大きく、馬力が強く、速く、多く載せている車に道を譲るのが普通である。
歩行者はいらだつことはあるにせよ、速い車に道を譲るのを異常だとは考えない。立止まっているなら周囲の空間に権利を生ずるが、
(ホテルのロビーでの私のように)そうではなく、歩いている時には、そうした権利のないことを承知している。アラブ人の場合、これとは
逆のようで、彼らは動くにつれて空間への権利を手に入れていくのである。アラブ人が入っていこうとしている空間へ、他のものが入っていくのは
権利の侵害になる。高速道路で行き先を横切られると、アラブ人はひどく怒る。アラブ人がアメリカ人を攻撃的ででしゃばりだというのは、
アメリカ人たちの動く空間の取扱い方に原因があるのである。
プライバシーの観念
上述の他にも多くの経験をすることで、私はアラブ人が身体とそれに関する権利についてもっている考えが、われわれのものとは
まったく逆ではないかと考えるようになった。公共の場で押したり突いたりし、公共の交通機関のなかで女性をなでたり、つねったりする
アラブ人のやり方は、西洋人にはけっして受けいれられないだろう。アラブ人は身体の外にプライバシーの圏があるとは考えもしない
ようにみえる。そしてこれはまったくその通りであった。
西洋の世界では、人格(パーソン)とは皮膚の内側にある個人である。そして北ヨーロッパでは一般に、皮膚と、ときには衣服さえ
も侵してはならないものになっている。どちらに触れるにせよ、相手を知らない場合は許しを得なければならない。この規則はフランスの
いくつかの地方にもあてはまる。そこでは議論をしていて相手にちょっと触れただけでも、法的に暴行が成立することになっている。
身体にかかわり合う上での人格の位置は、アラブ人ではまったくちがっている。人格は身体の内側の奥まったところに存在している
のである。しかも自我は完全にかくれきってはいない。それで侮辱がきわめてたやすくそこへ届くのである。それは接触からは守られている
が、言葉には無防備なのだ。身体と自我が分離していることからサウジアラビアでは、盗賊の手を民衆の前で切落とすことが標準的
な刑罰として容認されているいきさつを説明する。このことからまた、近代的なアパートに住むアラブ人が、その召使には5×10×4フィート
ほどの箱型の寝室をあてがい、床の面積を節約するためこれを天井から吊るし、おまけに外からのぞき穴までつける理由が説明できるのだ。
上述したように自我に対する深い方向づけが言語にも反映しているということは、容易に想像できる。私がこれに気づいたのは、
アラブ人の同僚で、アラビア語・英語辞典を編纂した人が、ある晩私の研究室へ入ってきて、疲れ切った様子で椅子に身を投げ出した
ときのことである。どうしたのかとたずねると、彼は答えた。「英語のrape(強姦)に当たるアラビア語を昼から探していたんだ。
アラビア語にはそんなことばはないんだ。書きことば、話しことばの資料もすっかり当たったが、似たいいいかえをするのがせいぜいだ。
『彼は彼女の意思に反して彼女と交わった』という具合にね。その一語で表される意味に近いことばはアラビア語にはないんだ」
身体に関して、自我がどこに位置するかという観念のちがいは把握しにくいものである。しかし一度このような観念を受けいれさえ
すればアラブ人の生活のうち、他の見方では、不可解としかいえない面の多くが理解できるのである。その一例は、カイロ、ベイルート、
ダマスカスといったアラブ人の都市の人口密度の高さである。第三章で述べた動物の研究によると、アラブ人は恒常的な行動のシンク
の中で生きていることになる。アラブ人は人口過剰に悩んでいるかもしれないが、一方では砂漠からの絶えざる圧迫が原因となって、
上述したような形の高密度への文化適応が起こったとも考えられる。自我を身体の殻の内側へ押込むことによって、高度の人口集中が
可能になったのであろう。このことによってまた、アラブ人のコミュニケーションが、北ヨーロッパ人のそれと比べると、なぜそんなに
電圧が高いのかの説明がつく。騒音のレベルがずっと高いだけでなく、目つきは鋭く、手が触れ合い、話している間、互いに暖かい
湿った息をかけ合うこと、こういったことが感覚入力電圧の高いことを示し、一方、多くのヨーロッパ人には強すぎて我慢できなく
なるのだ。
アラブ人の夢は広い家をもちたいということだが、これはなかなかかなえられない。しかし空間を手に入れると、それはたいていの
アメリカの家庭の空間とは非常に異なったものとなる。アラブ人の中の上の家庭の屋内の空間は、われわれの標準から見るととてつもない
ものである。そこには区切りがない。アラブ人は一人になるのを好まないからである。アラブ人は互いに深くインヴォルヴ
され合っているので、家の造りは家族をただ一つの保護殻の中へ包み込むような形になっている。彼らのパーソナリティは根と土壌
のように互いにまじり合い、栄養をとり合っている。人々といっしょにいて、何らかの方法で積極的につながりをもたない限り、生命を
失うからである。あるアラブ人の老人のことばがこのことをいいあらわしている。「人間のいない天国へは入ってはいけない。なぜって、
そこは地獄だからさ」したがって合衆国にいるアラブ人は、社会的にもまた感覚的にも喪失感をもつことが多く、人間的なぬくもり
と接触のある国へ帰りたいと憧れるのである。
アラブ人の家庭にはわれわれの知っているような身体的プライバシーがなく、プライバシーに相当することばさえないので、
アラブ人は一人になるには何か他の手段を用いるだろうと予想される。彼らにとって、一人になる方法は話をやめることである。
イギリス人と同様、アラブ人がこのようにして自分にとじこもったからといって、それは何か具合が悪いことがあるとか、相手を
避けようとしているとかいうことではない。ただ自分の考えにふけりたくて、邪魔されたくないということを示すだけなのである。
・・・
アラブ人の個体距離
世界中のだれもがそうであるが、アラブ人も彼らの非公式な行動パターンの規則をはっきりといい表すことができない。
実際彼らは、しばしば規則などはないといい、それがあるのだと示唆されると不安になる。そういうわけで私はアラブ人が距離を
どのように定めるかを決定するために一つ一つの感覚の用法を個別に研究してみた。するとはっきりした行動パターンがしだいに
浮かび上がって来たのである。
アラブ人の生活では臭覚が重要な位置を占めている。それは距離をとるための機構の一つであるとともに、行動の複雑な
組織の不可欠な部分でもある。アラブ人は話しているとき、たえず相手に息をふきかける。そしてこの習慣には単に作法が異なっている
という以上の意味がある。アラブ人にはよいにおいは快いものであり、互いに接触しあう手段の一つである。友人のにおいを嗅ぐことは
快いことであり、望ましいことでもある。彼に息をかけないようにすることは、ぎこちなく振舞うことであるからである。人の顔に
息をかけないように訓練されているアメリカ人が、礼儀正しく振舞っているつもりでいるとき、相手はそれを恥ずかしさのためだと
受けとる。われわれの最高級の外交官がその最上の作法を実行しているとき、それが相手に恥ずかしさを伝えていることになる
などとは、誰が想像できるだろうか。しかもこれはつねにおこっていることなのである。外交は「目と目を合わせる」ことばかりでなく、
息と息を合わせることでもあるからである。・・・
向かいあうこと、あわないこと
異文化間のコミュニケーションの分野における私の発見のうち最初のものの一つは、人が話しているときの身体の位置は文化によって
異なるということであった。とはいえ、アラブ人の親友が歩きながら話をすることができないのを私はいつも不思議に思っていた。
合衆国に何年も過ごした後でも、話しながら顔を前方に向けて歩くことができないのだ。彼が先へ出て、私の道をすこし遮って、
互いに顔が見えるように振返るので、われわれの足はひき止められてしまう。この位置をとると、彼は立止まらないわけにはいかない。
彼のこうした行動の理由は、アラブ人が他人を目の端で見るのは失礼であり、背中合わせに座ったり立ったりするのは大変無礼であると
考えているからである。アラブ人を友人にもてば、彼らのしきたりを受けいれなくてはならない。
アメリカ人はアラブ人が話をするときは、いつも近くでするといっているが、これはまったく誤っている。社会的な場面では彼らは
部屋の両端に離れて座ってことばを交わす。しかしアメリカ人がアラブ人にとってはあいまいな距離、たとえば4〜7フィートの社会・
談合距離を用いると、彼らは不快を感じがちである。彼らの不平の種は、アメリカ人が冷たく、お高くとまって、「気にしない(don't care)
ことである。ある初老のアラブ外交官は病院に入ったとき、看護婦が「職業的」距離をとったので、やはりこの感じを受けたという。
彼は無視され、十分な注意を向けられていないと感じたのである。もう一人のアラブ人は、アメリカ人の行動についてこういった。
「一体どうしたのでしょう。私のにおいが不快なのですか、それとも私をこわがっているのですか」
アメリカ人を交わるアラブ人はある種の単調さを経験すると報告している。これはプライベートにも公的にも、そしてまた
友人に対しても知らない人に対しても、目の使い方が(アメリカ人と)非常にちがうことが原因の一つになっている。アラブ人の家では
客がいろんなものを眺めながら歩きまわるのは失礼なのだが、一方ではアラブ人が相手を眺めるやり方は、アメリカ人には敵対的、
挑戦的に見える。あるアラブ人の報告者によると、彼の方では相手を傷つけようなどとは思いもかけないのに、相手を見る目つき
のせいで、アメリカ人との間がいつもうまくゆかないということである。実際、彼の目つきのせいで、男性として挑戦を受けたと
思いこんだらしいアメリカの男と、すんでのことでなぐりあいになりかけたことも何度かあったそうである。前述のとおり、
アラブ人は話しているとき、互いに目の中を見つめ合うが、その強さは大ていのアメリカ人にはきわめて不快である。
インヴォルヴメント
読者にはもうおわかりのことと思うが、アラブ人は、同時に多くのレベルで互いにインヴォルヴされている。彼らは公共の場での
プライバシーというものを知らない。たとえば、市場での取引は売り手と買い手がおこなうだけでなく、みんながそれの加わるのである。
周りに立っているものが誰でも参加できるのである。子供が窓を割っているのを大人が見ると、大人はその子供を知っていなくても
それを止めなければならない。政治の水準では、トラブルがおこりかけているときに干渉しないことはその仲間に
加わったことになる。わが国務省はいつもこうしたことをしているように見える。自分らの考えを形づくっている文化的鋳型を
すこしでも意識している民族は、現在の世界にはほとんどいない。こうした事実から、アラブ人がわれわれの行動を
彼ら自身のかくされた一連の仮定の中から導き出されたかのように見なすのは当然のことである。