『それでも人生にイエスと言う』解説より
現代とはどういう時代であろうか。かってニーチェは、来るべき数世紀にむけての予言として「神の死」を告げた。神の死とは、われわれの人生を意味づける超越的根拠が無化し、その結果、いっさいの価値が相対化し、根底において無化することである。われわれは、みずからを支える絶対的根拠を欠いたまま、無の深淵の上にさしかけられている。このことは、他面、われわれが神的・超越的権威のくびきから解放されることによって絶対的自由を獲得したことを意味する。この意味において、われわれにはすべてが許されている。しかし、この自由は、すべてが空しいという意味においてである。自由と不安(あるいは絶望)は、今日、相互に切り離しがたく結びついている。両者の一体性において、現代人は、いわば、無のゆえに、無の中で、無にむかって散乱するかのごとくである。
このような時代認識は、ニーチェとは立場が異なるにしても、フランクルにも共通している。本書の冒頭で、フランクルは「こんにちでもまだ、『意味』や『価値』や『尊厳』といった言葉をためらいなしに口にすることができるひとがいるのだろうか。いまやこうした言葉の意味そのものが、大なり小なり疑わしいものになってしまっているのではないか」と述べ、さらに「私たちがこんにち生きている実感からすると、生きる意味を信じる余地はほとんどないように思われます。・・・『心のなかが爆撃を受けた』といえば、こんにちの人々の気分、心境は、もっとも的確に特徴づけられるのです」と述べている。
ところで、本書の表題である『それでも人生にイエスと言う』は、ブーヘンヴァルト強制収容所で歌われた歌の一節であるが、この言葉はまた、ニーチェがニヒリズムの極端な形式であると同時にその克服の原理でもあるとして提出した永劫回帰の思想の標語、すなわち「人生にイエスと言う」と言う言葉と酷似している。ニーチェは、「無意味なるものの永劫回帰」という恐るべきニヒリズムをみずからに引き受け、それを運命として愛し(運命愛)、かくして「人生にイエスと言う」人生の絶対肯定の立場(超人の思想)に達した。このニーチェの立場についてここで詳しくふれることはできないが、フランクルが、本書の表題として『それでも人生にイエスと言う』という言葉をわざわざ選んだのは、明らかにニーチェを意識してのことであると思われる。と言うのは、彼は本書で次のように述べているからである。「現代の哲学が、世界を、無なら成り立っているかのように考えているのも、不思議ではありません。しかしながら、私たちは、このようなニヒリズムを通り抜け、悲観主義と懐疑を通り抜け、・・・新しい人間性に、いまこそ到達しなければなりません」
この課題、すなわち「ニヒリズムを通り抜け」て「新しい人間性」へ「到達」するという課題がまさに本書の(さらにはフランクルの実存思想全体の)主題に他ならない。強制収容所という、あらゆる意味実現の可能性が奪われていたかに思われる状況、このニヒリズム的な限界状況は、さきに述べたようにたとえ鉄条網に囲まれていないにしても、根本的にはそのまま現代の精神状況にも通じるものでもあると思われる。この「ニヒリズムを通り抜け」て、われわれは、いかにして「新しい人間性」へ「到達」することができるのだろうか。フランクルによれば、それはひとえにわれわれが「生きる意味」をいかなるものと解するかにかかっている。彼は、そのことをみずからの収容所体験によって自覚したのである。
(「解説 T」から)
『それでも人生にイエスと言う』(春秋社 1993年V.E フランクル著 山田邦男・松田美佳訳)
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