今月の言葉抄 2007年3月

ユダの福音書

『原典 ユダの福音書』(日経ナショナル ジオグラフィック社 2006年)と、同時出版された『ユダの福音書を追え』(ハーバート・クロスニー著)を読んだ。1978年頃中部エジプトで発見され、30年近くの数奇な変遷を経て、昨年無事翻訳出版されたものである。原始キリスト教時代の四世紀頃のもので、千六百年を経て発見されたこと自体が奇跡的だが、その内容にキリスト教世界は驚愕した。ユダといえば、イエスを裏切った使徒として忌み嫌われていたのだが、この福音書ではユダは十二使徒の中で唯一イエスを理解していた弟子であり、すべてはイエスの意図の下に行動したのである。さわりはイエスがユダに語る次の箇所であろう。

だがお前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう。

またイエスがそこから来た事を示す次のような記述もある

イエスは言った。「[来なさい]、いまだかって何びとも目にした[ことの]ない[秘密]をお前に教えよう。それは果てしなく広がる御園だ。[そこ]は天使たちでさえ見たことがないほど広大で、[一つの]目には見えない[霊]がある。
そこは天使も見たことがなく、
いかなる心の思念によっても理解されず、
いかなる名前でも呼ばれたことがない

『ユダの福音書』のなかで、イエスはよく笑うのである。これはとても新鮮だ。笑うイエスは新約聖書の福音書の中でも絵画の中でも想像できないだろう。

このパピルス本は、全部でパピルス33枚つまり66頁だが、『ユダの福音書』の部分はその中の33頁目から58頁までで、正味26頁の短いものです。通常の単行本ならおそらく13頁で終わってしまうだろう。それ自体断片的な印象を免れないが、独自の本質的な表現も散見される。理解するには福音書の知識が必要だが、以下では、同書のなかの解説から、グノーシス派の説明を引用したい。というのも『ユダの福音書』は、当時異端とされ今は歴史の中に消えてしまったキリスト教の一派であるグノーシス派の人々の福音書であるからだ。(管理人)



グノーシス主義という言葉は、ギリシャ語の"gnôsis"が語源で、知識という意味だ。グノーシス派とは、「知っている」人たちのことだ。では、彼らは何を「知っている」のか。救済にいたる秘密である。グノーシス派によれば、人はイエス・キリストを信じたり、善行したりすることで救われるのではない。そうではなく、真理を知ることで救われるのだ。私たちが生きている世界についての真実、神についての真実、特に人間についての真実だ。
つまりは、自己認識ということになるだろう。人間はどこから来たのか、どうやって地上に登場したのか、どうやって天の家に帰ることができるのかを認識するのだ。ほとんどのグノーシス派では、この物質世界は、私たちの家ではない。私たちはこの地上で、肉体という身体の中に閉じこめられているため、そこから逃れ方法を学ばなくてはならない。キリスト教のグノーシス派(多くのグノーシス派はかならずしもキリスト教徒ではない)にとって、天からこの秘密の知識をもたらしたのは、ほかならぬイエス・キリストその人なのだ。イエスは側近の使徒たちにこの真実を明かした。そして、この真実こそが、彼らを解放できるのだ。
伝統的なキリスト教は、私たちのこの世界は唯一絶対の神が創造した、素晴らしい世界だと教えている。だが、グノーシス主義者の考えはそうではない。さまざまなグノーシス派にとっては、この世界を創造した神は、唯一神ではなく、実際、全能でもなければ、全知の神でもない。かなり下級の、劣位で、多くの場合無知な神なのだ。この世界を見て、それをすばらしい世界と呼ぶことが出来るだろうか。グノーシス派は、地震、暴風雨、洪水、飢饉、干ばつ、伝染病、貧困、苦痛など、身近に起きる災難を見て、この世界はすばらしい世界ではないと断言する。だが、グノーシス派はこうも言う。この世界の責任を神に負わせることはできない!この世界は宇宙の大失敗の産物なのだから。救済は、この世界と物質の牢獄から逃れる方法を学んだ人だけが得られるのだ。
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『ユダの福音書』が、いわゆる裏切りの場面で終わっているため、多くの読者は奇妙な印象を受けるだろう。だが、本書で先に述べられた見解から考えると、完全につじつまが合っている。イエスの死はあらかじめ決まっていた。それに至る手段だけが必要だった。そして、ユダが確実にそうなるための役割を果たす。だから、ユダは他の誰よりも「優っている」のだ。
ここに復活はない。おそらくこの点が最も重要だ。この福音書では、イエスは死からよみがえることはない。そんな必要がないからだ。救済の意義は、この物質世界から「逃れる」ことである。死体の復活は、人を再び創造主の世界へと引き戻すことになる。魂がこの世界を去り、「偉大な、神聖な世代」、つまり、この世界に優るか神の王国には入るのが目的なのだから、肉体の復活など、イエスはとうてい望むわけがないし、彼の真の弟子も誰ひとりとして望まないだろう。
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今まで埋もれていたこの見解では、ユダひとりがイエスについての真実を知っていたことになる。イエスはこの世界の創造主のもとから来たのではないし、もちろんその息子でもない。イエスは、救済をもたらす秘密の知恵を明かすために、バルベーローの国からやって来たのだ。救済をもたらすのはイエスの死ではない。イエスの死は、彼をこの邪悪な物質世界から開放したにすぎない。この世界は苦痛と悲惨の汚水ためで、救済の望みは、この世界を捨てることになるのだ。一部の人間はそうするだろう。私たちの中の一部の人間は、神性の輝きを宿し、死ねば肉体の牢獄から飛び出て、天の家に帰るのだ。私たちはその神の王国からやって来て、その王国に戻り、輝かしく、気高く、永遠に生きるのだ。
同書解説「よみがえった異端の書」(バート・D・アーマン記)より
更新2007年3月24日