今月の言葉抄 2006年10月

菩提樹下のさとり

沙門ゴータマは、一本のピッパラ樹のもとに、草のしとねを敷いて、ふかぶかと座していた。

のちの仏教学者たちは、そのピッパラ樹を「ボーディ・ルッカ」と呼ぶ。「菩提樹」である。彼がその木のもとにおいて「菩提」すなわち「さとり」を成就したからである。それは、桑科に属する常緑の喬木であって、わが国の桑の葉に似て、ハート形の葉をつけ、また「ピッパ」とよばれる小さな、丸い実をむすぶ。だが、わが国の桑の木とは似つかぬほどの喬木であって、その樹蔭は、炎暑をさけ、思索する人々の憩いの場所に適する。

そこに座した沙門ゴータマの姿勢は、いわゆる結跏趺坐のそれであった。跏というのは足の裏のことであって、両足をまげ、両の足裏を上向きに、両もものうえにのせて座する座法である。それは、ふるくからインドにつたわる座法であり、また、いまもなお禅家がつたえる座禅のすがたである。のちの『ヨーガ・スートラ』(1の46-7)に、
「座法は、確固、かつ、快適に、緊張を和らげ・・・」
 というのが、その座法の心である。

そこに、そのように座したゴータマは、いまや、自信にみちた面もちであった。なるほど、彼は、苦行をやって失敗におわった。だが、苦行の不合理であることを観破しえたことは、彼にとっては、おおきな収穫であった。そのことが、かえって、彼に一種の自信をもたらしたようであった。道はちかきにあるにちがいない。こんどこそは、かならず課題を解決してみせる。解決にいたるまでは、断じてこの座をとくまい。その思いが、なにか自信ににたものとなって、その面もちにあふれていた。

考えてみると、ここまで来るには、いろいろなことがあった。七年前には、父のかなしみ、妻のなげきをあとにして、家をいでて沙門の生活にはいった。それも、つらいことではあったけれども、それによって、彼は、この世のしがらみから自由になることができた。出家してマガダ(摩掲陀)の国にきてからは、まず、いろいろの思想家を訪れて、その抱懐するところを問うてみた。だが、彼は、どこにいっても、わが心に満つるものを聞くことはできなかった。それは、悲しいことではあったけれども、そのことは、彼が、その時代の思想のながれから自由になりえたことを意味する。さらに、いまもいったように、彼は、それから、苦行によって道を打開しようとしたけれども、彼は、それによって、インド的実践の迷妄を克服することを得たのである。

束縛は断たれ、迷妄は克服され、もはや、彼の心の眼をおおうものはなにもなかった。そのことが、ふしぎな自信となって、彼は、いま、ここに座す。その樹下の座がどのくらいの期間にわたったものであるか。わたしどもは、それを知るべき資料をもたない。だが、あえていうなれば、その期間は、けっして、さほどながいものではなかったように思われる。そして、それからまもなく、まだ明けそめぬそらにあけの明星がきらめいた時、彼は、ついに、おおいなる決定的瞬間をむかえることができた。それを、のちの仏教者たちは、「正覚」とよび、あるいは「さとり」といい、もっと厳めしくは、「大覚成就」という。そして、その時このかた、沙門ゴータマは、いまやブッダ・ゴータマと称せられるこことなるのである。

では、その決定的瞬間は、いかにして実現したのであるか。また、その時、彼が把握したものは、どのような内容のものであったろうか。それらのことが、とうぜん、ここで問われなければならない。

だが、その決定的瞬間の消息については、わたしの筆は、まったく沈黙するよりほかはない。なんの説明をもさしはさむことができないからである。しかし、考えてみると、そのことについては、ブッダ・ゴータマじしんが、すでに、なにごとも語ることができなかったのではないかと思われる。その証拠には、その瞬間のことについては、ブッダはかく語ったとか、あるいは、わたしはこう聞いたとか、そのような記述は、ふるい経典のどこにも見出されない。それもその筈であるように思われる。なんとなれば、ながい間かかえていた問題に、ふとしたことで解決の手がかりを得ることがある。それも、湯につかっていて、ふっと閃くということもあるし、寝床のなかでうとうとしながら、はっと気がつくこともある。

では、どうして気がついたのか、閃いたのかというと、それは、自分でもわからないのである。自分のことはさておいても、たとえば、ニュートンが林檎の実のおちるのをみて、その瞬間に、かの万有引力の問題についての手がかりを得たという。その瞬間の消息については、ニュートンじしんも、やはり説明することができないであろうと思う。

いや、たった一つだけ、ふるい経のなかに、その瞬間の機微をといたと思われる韻文(偈)が見出される。それは、『ウダーナ』(自説経と訳する)と称せられる経の第一品の一の部分にあるもので、つぎのような韻文である。

まこと熱意を込めて思惟する聖者に
かの万法のあきらかとなれるとき
彼の疑惑はことごとく消えさった
縁起の法を知れるがゆえである

それは、ブッダ・ゴータマが、かの正覚を成就してのち、なお樹下にとどまり住して、その所得の内容をあれこれと思いととのえている間に、ふとうかんできた韻文であるという。だが、一読してわかるように、それは、ブッダじしんの胸中にうかんだものではなくて、のちの者がブッダの心中を推してこの韻文をなしたものにちがいあるまい。その用語があきらかにそのことを示している。とはいいながら、この韻文は、なお、はなはだ珍重すべきものであるとしなければならない。なんとなれば、そこには、ブッダの「さとり」えたものの思想的構造が、はなはだ明快に語りいだされているからである。とくに、「かの万法のあきらかなれるとき、彼の疑惑はことごとく消えさった」という部分は、ブッダの「さとり」の思想的性格をずばりと説きあかしているのである。

世に真理ということばがある。だが、それによって、人々が考えている真理のありようはさまざまである。ある者は、神の啓示によって与えられたものを真理というかもしれない。また、ある者は、存在の真相を把握しえたとき、それを真理というのであろう。ギリシャ人の真理観がそれである。彼らは、真理をいうに「アレーティア」という語をもちいるが、それは「覆われてあらぬこと」というほどの意である。そして、いま仏教における真理観もまた、それに近いものであるといってよかろう。いや、真理などということばは、西洋わたりの翻訳語であって、仏教では、実相とか、真如などという。その言い方のなかに、すでに、はっきりと示されているのであるが、仏教もまた、覆われてあらぬ存在のあるがままの相をもって、実相となし、真如となすのである。そして、その考え方をさかのぼってゆくと、いま、ここに、「かの万法のあきらかとなれるとき、彼の疑惑はことごとく消えさった」という、このブッダの「さとり」にまで遡りいたるのである。

だが、その時、なにがゆえに「かの万法があきらかになった」かというと、それは、すでにいったように、その時、ブッダは、ことごとく束縛を断ち、迷妄を克服して、もはや、彼の心の眼を覆うものはない状態にいたっていたからである。世のしがらみを断ち、当時の思想家の学説をしりぞけ、苦行という実践の不合理をも観破して、いま菩提樹のもとに端座するブッダには、すでに、そのような覆われざる眼が具備されていたのである。だからこそ、彼は、そこに座して、こんどこそは必ずという、ふしぎな自信を覚えたのである。そのブッダのまえに、万象は、覆われるところなく、そのあるがままの相を露呈したのである。そして、「さとり」とは、そのことに他ならないのである。

それにつけても、わたしは、ここで、禅家たちの説く真理観を思いおこさずにはいられない。彼らはいう。「法々は隠蔵おんぞうせず。古今つねに顕露けんろなり」と。そのいうところは、万法はけっしてみずから隠しているのではないということ。存在はいつもそのあるがままの相を、あらわに露呈しているということである。ただ、人間のまなこが、迷妄におおわれ、愛憎におおわれ、無明におおわれて、これを見ることを得ない。つまり、覆われてあるのは、存在のがわではなくて、人間のがわであるとするのである。では、真理、いな、諸法の実相に直接するためには、ただ人間のがわにおける覆えるものを取り去ればよいのである。かくて、禅家の人々は、只管打座、ひたすらに打ち座って、身心脱落、つまり、迷妄も、愛憎も、先入見も、ことごとく脱落せしめた自己を実現しようとする。そのような禅家の人々のいとなみも、また、遡ってその先蹤をたずぬれば、いま、ここに、菩提樹のもとに座して、覆われざる眼をかっと見開いているブッダその人にまで遡りいたることをうるのである。

(4 菩提樹下のさとり)から
『この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯』(社会思想社 現代教養文庫 1997年)増谷文雄著 
更新2006年10月28日