1945年4月、すでに戦局は絶望的である。組閣の大命を受けたとき、
「私は一介の武弁。おまけに七十八歳の老いぼれで、このとおり耳も遠くなっておりますし、その儀は余人に・・・」
固辞する貫太郎(鈴木貫太郎)に天皇は言う。
「耳が遠くてもかまわん。
涙ながらの懇願に貫太郎は大命を受ける。昭和天皇にとって、貫太郎は「父」とも
貫太郎の
「武士の情け、止めだけは・・・」
安藤は事前に貫太郎を訪ね、その悠揚せまらざる人柄に触れていた。ために止めを制する。このとき九死に一生を得た男が、日本を救うことになる。
昭和天皇にとって、もはや父とも恃む貫太郎一人が頼りだった。大命を受けた夜、長男の
「オレはバドリオになる」
バドリオはムソリーニ失脚のあと、臨時政府を組織して連合国と和平を結ぶ。日独伊三国同盟からして「裏切り者」である。あえて裏切り者の汚名を着ても、和平に持ち込む決意をこのセリフに込めている。その決意が悟られたとき、徹底抗戦を叫ぶ将校らに当然のこと命を
とりあえず「聖戦貫徹」を叫んで軍部の暴発を抑えながら、この内閣でなんとしても戦争を終わらせる―腹に終戦の決意を秘めて機を
貫太郎の執務机の上に、ただひとつ置かれた「老子」にいわく、
「大国を治めるは
国の経営は、小魚をとろ火で形を崩さぬように煮るがごとく、慎重な手付きを要する。深謀遠慮、腹芸の日々が続く。ソ連に終戦の
首相に就いてほどなく、敵国大統領ルーズベルトが死ぬ。貫太郎はアメリカ国民に向けて哀悼の意を表明する。一方、ヒトラーは「ザマーミロ」と言わんばかりのコメントを発信(十日後に彼も死ぬ)。両者を比べて作家のトーマス・マンは、貫太郎の品位を賞賛した。
「あの東方の国には、騎士道精神がいまだ存在する」
二発の原爆とソ連の参戦―これを機に、貫太郎は
それを
このときの貫太郎は、天皇を超えてそれを利する存在、民族の生存本能を一身に体現する存在、さらにいえば「日本の神」のごとき存在だったといえる。愚図の耄碌爺ィどころか、何百年に一人で出るか出ないか、まさに救国の宰相だった。貫太郎の偉大さを述べて、百万言を費やしてもまだ足りない。
一昨年の師走、赤坂『
「貫太郎さんの額がかかっているですって。見に行かない?」
当方の貫太郎好きを知っていて、誘ってくれた。いそいそと出かけた。日本橋・浜町の『スコット』。お座敷でフランス料理を出す。シェフの先代は貫太郎の官邸で料理人を勤めた。客が記帳した古い名簿に
掛け軸に記された貫太郎の能筆は、『慈故能勇』の四文字だけ。され、どう読むのか。出典も定かでない。書きとめて作家の
「たぶん『老子』じゃないかと思うんですが・・・」
さきに記したエピソードを伝えた。翌日、FAXがあった。
「やはり『老子』にあった。ただし最近の本ににはなく、
と添え書きがあり、
「慈あり。
とあった。亡国の危機を救ったのは「父の慈愛」と思える。
大賢は大愚に似たり。耳の遠い耄碌爺ィ・鈴木貫太郎が、とにもかくにも国の全壊を防いだ。