・・・(1920年)3月はじめ、マックス・ボルンがゲッチンゲンの教授への招きを受け入れて転居すべきか否かについて助言を求めてきたとき、アインシュタインはボルンへの返事の中でこう書いた。
・・・要するに、どこに居を定めるかはたいして重要なことではありません・・・そのうえ、どこにも根をもたない私には、助言する資格がないように感じられます。私の父の骨はミラノに埋められています。母の骨は数日前に当地に埋葬しました。私自身もたえずあちらこちらさまよっています―どこでもよそものです。私の子供はスイスにおり、会いたいと思ってもややこしい手数のかかる情況下に置かれています。だから、私のような人間は、家族や友人などとどこでもくつろぐことが理想だと考えます。このような男には、この件についてあなたに助言する権利はありません。
ここには彼の前年のある手紙がこだましている。1919年、日食の結果の公式発表の直前、アインシュタインは仕事でオランダへ行ったとき、エーレンフェストの一家と楽しい数日を過ごした。のちに彼に感謝しながら、アインシュタインはこう書き送った。「これからも深い個人的な付合を保ち続けようではありませんか。それがお互いのためになること、そしてどちらも相手がいるために自分がこの世でよそものだという感じがやわらぐということを私は知っています。」
(「第9章プリンシベからプリンストンへ」から)
公共の問題については、彼は聖書の預言者たちのように単純かつ何ものをも恐れずに所信を表明した。これは彼が人間同胞の運命に深い関心をもっているためだった。とはいえ彼はこう書いた。
私には社会的正義と社会的義務への激しい情熱と奇妙な対立をなして、人間および人間の諸共同体に直接接触を求める欲求の著しい欠如が常に存在した。私は正真正銘の「一頭立て馬車(Einspänner)」であり、国家にも、故郷にも、友だち仲間にも、親近の家族にさえ、全心情をもって帰属したことはなく、これらのあらゆる絆に対して、けっしてやむことのない違和感と孤独を欲する気持ちを持ち続けてきた。この感情は年をとるにつれてますます強まってきた。
これが書かれたのは、1931年だったが、それは彼の全生涯にあてはまるものだった。
(「第12章死」から)
どこに住むかは問題ではないと、アインシュタイン自身が言っているが、彼の伝記を少なくとも時系列的に知ろうとする読者にとっては、必要な知識と思われるので、同書に書かれた中から抜粋しておきたい。(管理人)
年 | 年齢 | 事象 | 居住地ほか | |
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1879 | 3月14日ドイツのバイエルンのシュワーベン地方にある中都市ウルムで生まれる。その通りは「アインシュタイン通り」と名づけられている。ここには1年位しか住んでいない。 2歳に妹マヤがいる。 | ドイツ ウルム | ||
1880 | 1 | アインシュタイン家ミュンヘンに移転する。 | ドイツ ミュンヘン | |
1885 | 6 | カトリック系の小学校に入学する。 | ドイツ ミュンヘン | |
1889 | 10 | 小学校を卒業し、ルイトボルト・ギムナジウムへ入学する。 | ドイツ ミュンヘン | |
1894 | 15 | ミュンヘンの工場が倒産し、両親はイタリアのミラノへ引っ越す。アインシュタインは、一時ミュンヘンに残るが、学校に嫌気がさして退学し、両親の居るミラノへ行く。 | イタリア ミラノ ドイツ市民権を捨てる。 | |
1895 | 16 | チューリッヒ連邦工科大学を受験するが失敗する。同年大学入学資格をとるため、スイスの小さな町アーラウにあるアールガウ州立高校に入学する。 | スイス アーラウ | |
1896 | 17 | チューリッヒ連邦工科大学に入学する。大部分の時間を、自分自身で科学の世界を探検することに費やし、実験をやったり、科学と哲学の世界の偉大な開拓者たちの著作を原典で勉強した。マックスウェルの電磁気学はこのようにして独学した。講義にはあまり出なかったので、試験の時は級友のマルセル・グロスマンからノートを借りてしのいだ。 | スイス チューリッヒ | |
1900 | 21 | チューリッヒ連邦工科大学を卒業する。 | スイス チューリッヒ | |
1901 | 22 | 卒業したが、就職できない状態が続く。 | スイス チューリッヒ 2月スイス市民権を取得し、生涯保持する。 | |
1902 | 23 | 2月スイスのベルンに引越し、家庭教師で生計をたてる。 グロスマンの紹介により、6月22日スイス特許庁に就職する。 ベルン大学の哲学科の学生モーリス・ソロヴィンとその後数学の友人コンラッド・ハビヒトが加わり、3人で「オリンピア・アカデミー」を結成する。 | スイス ベルン | |
1903 | 24 | スイス ベルン 1月6日ミレヴァ・マリッチと結婚する。ミレヴァはハンガリー出身、母国語はセルビア語、ギリシャ正教徒。 | ||
1904 | 25 | スイス ベルン 長男ハンス・アルバート生まれる。 | ||
1905 | 26 | この年は、独創的な5本の論文を発表し、奇跡の年、といわれる。 3月17日「光の生成と転換とに関する発見法的見地について」(光電効果―光量子説)を発表する。 4月「分子の大きさの一つの新しい決定」の論文を発表する。(チューリッヒ大学へ博士論文として提出) 5月「ブラウン運動」(原子の実在を証明する)に関する論文を発表。 6月30日「運動物体の電気力学について」(特殊相対性理論)を発表。 9月3ページの短い論文を発表する。前の論文の中から、もし物質がEだけの量のエネルギーを光の形で放出するなら、その物質の質量はE/c²だけ減少することを示した。ここでは、どんな種類のエネルギーも質量をもつとだけ述べた。その逆も成り立つに違いないこと、すなわちどんな種類の質量もエネルギーをもつという驚くべき認識に達するまでには、彼にとってさえ、2年以上の時間がかかった。 | スイス ベルン | |
1907 | 28 | 自ら相対性理論の最も重要な帰結と語る式、E=mc²を示す。どんな種類の質量もエネルギーを持つ、質量とエネルギーは完全に等価であるとする式。 | スイス ベルン | |
1908 | 29 | ベルン大学の私講師になる。 | スイス ベルン | |
1909 | 30 | 5月7日チューリッヒ大学助教授になる。 7年間在籍した特許庁に、7月6日辞表を出す。 | スイス チューリッヒ | |
1910 | 31 | スイス チューリッヒ 次男エドアルト生まれる。 | ||
1911 | 32 | プラハのドイツ大学正教授に任命される。 | チェコ(旧オーストリア・ハンガリー帝国) プラハ | |
1912 | 33 | 10月母校チューリッヒ連邦工科大学の教授に任命される。 | スイス チューリッヒ | |
1914 | 35 | 4月カイザー・ウィルヘルム研究所の研究部長及びベルリン大学教授として招かれ、ベルリンへ行く。 | ドイツ ベルリン 夏、ミレヴァは子供たちを連れてチューリッヒへ帰る。事実上の離婚。 8月第一次世界大戦勃発。 | |
1915 | 36 | 11月25日一般相対性理論完成。 | ドイツ ベルリン | |
1917 | 38 | 宇宙方程式を発表。 | ドイツ ベルリン | |
1918 | 39 | ドイツ ベルリン 1月第一次世界大戦終結。 | ||
1919 | 40 | 5月29日イギリスのアーサー・エディントン率いる日食観測隊がアフリカ西海岸のプリンシベ島とブラジルのソプラル村へ派遣され、悪天候の中何枚かの撮影に成功する。 11月6日イギリスの王立協会と王立天文学会の合同同会議が開かれ、日食観測結果はアインシュタインの一般相対性理論の予測と一致する発表があった。このニュースは世界中に流れ、アインシュタインは世界的知名人になる。「人類の思惟の歴史におけるもっとも偉大な達成の一つ―おそらく最大のもの―」(王立協会総裁ジョセフ・ジョン・トムソン) | ドイツ ベルリン スイス市民権を保持したまま、再度ドイツ市民権を取得する。 2月11日ミレヴァと正式に離婚成立。 6月従兄妹にあたるエルザ・アインシュタインと結婚。エルザには二人の娘イルゼとマーゴットが居た。 | |
1921 | 42 | 4月〜6月シオニストの指導者(後初代イスラエル大統領)チャイム・ヴァイツマンの要請に応じ、ヘブライ大学設立の募金活動を支援するため、アメリカへ行き、各地で講演する。帰路イギリスに立ち寄り講演する。 | ドイツ ベルリン | |
1922 | 43 | 3月フランスを訪問する。 10月〜11月日本訪問。帰路、パレスチナ、スペインを訪問する。 日本への途上、「理論物理学に関する貢献に対し、特に光電効果に合致する法則の発見に対して」1921年度ノーベル賞受賞の知らせが届く。 | ドイツ ベルリン | |
1930 | 51 | この年及び1931年32年の冬アメリカへ行き、カリフォルニア工科大学(在パサデナ)の招きで、客員教授として過ごす。 | ドイツ ベルリン | |
1933 | 54 | 3月ドイツに帰国しない旨宣言する(パサデナにいた)。 3月28日プロイセンアカデミーを脱会する。 ドイツ国籍を放棄する。 10月17日アメリカ到着。ニュージャージー州プリンストンに住む。プリンストン高等科学研究所研究員となる。 | アメリカニュージャージー州プリンストン 1月30日ヒットラー首相に任命される。3月23日「全権委任法」成立。 | |
1939 | 60 | 8月2日レオ・シラード、ユージーン・ウィグナー、ウィリアム・テラー等の薦めにより、ドイツが核爆弾を開発する可能性を示唆した内容の、ルーズベルト宛の手紙に署名する。 | アメリカニュージャージー州プリンストン | |
1940 | 61 | 10月1日アメリカ市民権を取得する。 | アメリカニュージャージー州プリンストン | |
1955 | 76 | 4月18日死去。 |