今月の言葉抄 2006年3月

文章を書く基本 混沌に秩序を与える

・・・ご承知のように、現在、日本の学校教育では、文章を書く方法は殆ど全く教えられていません。こんな情けない学校教育があるでしょうか。稀に作文を指導する奇特な先生がいても、生徒に向かって、思った通りに書きなさい、と言うばかりです。そもそも、思った通りに書くというのは、どういうことなのか。それは勝手にしろ、ということを少し言い換えたものです。本当に、思った通りに書けるものなら、誰も文章で苦労などする筈はないのです。ピアノを弾きたいという少女に向かって、思った通りに弾きなさい、と教える音楽家がいるでしょうか。彼女は、いかに非個性的でも、いかに卑屈でも、バイエルから始めなければならないのです。
・・・
「思った通りに書きなさい」、「見た通りに書きなさい」というのは、もともと、自分の経験を大切にしなさい、という忠告なので、それには深い意味があります。深い意味はあるのですが、ただ、そのまま実行することが出来ないのです。それを実行するのには、どうしても、誰かの文体の真似をするという迂路を通らねばならないのです。
見た通りに書く、というのは、自分の外部の事柄について言われることであり、思った通りに書く、というのは、自分の意識の内部について言われることでしょう。さて、この部屋の様子を書こうとして、自分の周囲を眺めてみますと、小さな部屋なのに、本当にいろいろのものがあります。書こうという心構えで、丹念に見れば見るほど、いろいろのものが見えて来ます。意識にしても同じことで、自分の心の様子をあるがままに書こうという態度で反省すればするほど、いろいろの観念が相互に衝突しながら同居しているのが判ります。嘘と思う方は、皆さんの周囲を眺めてごらんなさい。皆さんの心の中を覗いてごらんなさい。
いろいろなものがゴタゴタと見える状態、いろいろの思いがぶつかり合っている状態、それを昔の学者は混沌と名づけました。混沌は生命の泉です。すべての美しいものは、この生命に満ちた混沌の中からのみ生まれてきます。しかし、それが生まれるのには、私たちの精神が混沌に手を加えねばなりません。精神が混沌を組み伏せねばなりません。そんなことを私が申しますのは、文章を書くというのが、写真をうつすのと全く違う活動であるからです。
もし、カメラが使えるのなら―人間の意識をうつすカメラは、まだ発明されていませんけれども―この混沌へレンズを向けて、シャッターを切れば、ゴタゴタのままの混沌を一枚の映像に作り上げることが出来るでしょう。しかし、悲しいかな、文章を書くというのは、シャッターを切るような一瞬の操作ではありません。外部の風景を書くにしろ、意識の有様を書くにしろ、一字一字、一語一語、私たちは文字を書いていかなければならないのです。相手が混沌のままでは、私たちは何から書き始めてよいのか、見当がつきません。手も足も出ないのです。いくら混沌を眺めていても、何から先に書くか、何を後に回すか、という順序は生まれてきません。順序は、混沌の中から現れるものでなく、私たちの精神が作り出して、混沌に押しつけるものなのです。
また、文章を書こうとして、私たちの内外を注意深く観察する場合、実に沢山のものが見えて来ます。平常は見落としていたものも、次から次へ見えて来ます。その全部を一篇の文章に盛り込もうとしても、到底、盛り込めるものではありません。そこで、どうしても、取捨を施すことが必要になります。何かを選び、何かを捨てるというわけです。しかし、取捨選択の規準は、混沌の中からは出てきません。それは、混沌と向かい合って途方に暮れている精神そのものが作り出して、これを混沌に押しつけるほかはないのです。
作家でもよい、学者でもよい、とにかく、自分の好きなスタイルの持主の真似をしよう、と私は申しました。真似というと、いかにも簡単な、いかにも下らないことのように考える人がいるかも知れませんし、また、実際に、文字の使い方や言い回しの真似をするという簡単なケースもあるにはありますが、しかし、本気である人のスタイルの真似をするとなると、もう文字や言い回しの真似ではすまなくなります。そうです。精神の真似をすることになるのです。精神の真似というのが変なら、考え方の真似と言い直してもよいでしょう。
つまり、その人の文章を真似しているうちに、その人が混沌にどういう秩序を押しつけるか、どういう取捨の規準を押しつけるか、その流儀というか、その方法というか、それを真似するようになるのです。その人の精神の働き方を真似するようになるのです。そこまで踏み込まなければ、真似をすることの意味はありません。いや、特に踏み込まなくても、或る人の書き方が好きだと思う私たちの気持ちの中には、その人の精神の働き方が好きだということが自然に含まれているのかも知れません。
(「第三話 精神のスタイル」から)
『私の文章作法』(潮新書75 潮出版社)清水 幾太郎著

「文章読本」の類いの本は、谷崎潤一郎、三島由紀夫、丸谷才一のものなど、他にも沢山あるが、私はいずれも途中で投げ出した。きっとこちらの読む姿勢が悪かったのだろうと思っている。たまたま手に取った清水幾多郎のこの本は、著者が雑誌記者の質問に答えるかたちで喋ったものをもとにしているので、構えたりせず、率直に語られていて読みやすいし面白い。文章を書くセンスのある人と無い人がいる話しからはじまっており、最初から引き込まれてしまった。実際そう思う。文章を書くセンスのある人と無い人がいるのだ。本を書く人がそれに気づいてくれれば、駄本は半分に減るかもしれない。本は内容もさることながら、それより大事なのは、書き方であり、表現の仕方だと思う。(管理人)

更新2006年3月10日