バビロン捕囚
さて、アッシリアによって滅ぼされた北王国と、新バビロニアによって滅ぼされた南王国とでは、征服者側の占領政策の微妙な違いが、
民族のその後の運命に決定的な相違をもたらした。アッシリアもバビロニアも征服した民族に強制移住政策を行ったが、アッシリアが旧北王国の住民をアッシリア領内各地に分散させ、また旧北王国領に他の地域の住民を移住させる双方向型移住政策をとり、結果的に被征服民を混合させてしまったのに対し、バビロニアは旧ユダ王国の住民を比較的まとまった形でバビロン近郊に住まわせ、しかも一方向型移住政策で満足して、旧ユダヤ王国領土を放置し、そこに異民族を植民させなかった。それゆえユダの人々は、バビロンにおいても本土においてもその民族的同一性をかろうじて維持することができ、しかもバビロン捕囚終了後には故郷で民族の再生を図ることができた。
したがってイスラエル十二部族のうち、王国滅亡を越えて生き残ったのは、ユダ部族(および祭司部族であったレビ人と、南王国の住民であった一部のベニヤミン人)を中心とする旧ユダ王国の人々だけであった。このことから、やがて彼らはユダヤ人(ギリシャ語で「イウダイオイ」)と呼ばれるようになる。これ以後われわれも、この呼称を用いることにする。
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バビロンに移されたユダヤ人にとってとりわけ切迫した問題であったのは、異民族の地でイスラエル=ユダヤ人としての民族的同一性を維持することであった。国家と国土とを失った彼らにとって、民族としての同一性を保つための唯一の支えは、彼らの宗教であった。しかし、ヨシヤ改革以降伝統的礼拝の可能な唯一の場所となっていたエルサレムの聖所から引き離され、穢れた異教の地に移された彼らにとって、巡礼や祭礼や犠牲といった従来の仕方で宗教生活を守ることは不可能になっていた。それゆえ彼らは、長老や知識人を囲む集会で、宗教的文書の朗読や説教、祈りを中心とした言葉の礼拝を行うようになったと考えられる。そしてこのような伝統は、やがて後のシナゴーグにおけるユダヤ教の礼拝の原形となったのである。
『聖書時代史 旧約篇』岩波現代文庫 山我哲雄著 2003年2月 第7章第二節バビロン捕囚