今月の言葉抄 2015年1月

臨死体験

ムーディとのインタビューに話を戻す
— 問題は、この臨死体験とは、いったい何なのかということなんですが、何らかの意味で死後の世界をのぞき見たということなのか、 それとも、単に脳の中で起きている一種の幻覚にすぎないのか、大きくわけると、二つの考えがあると思いますが、本当のところ、 どうなんでしょう。
「本当のところどうなのかと問われると、わからないというほかありません。私はこの現象を研究して二十五年になりますが、 最後にはどうしても本質的にミステリーの部分が残るんです」
— 本質的にミステリーとは?
「客観的にこうであると決着がつけられないという意味です。臨死体験をもって死後の世界の存在証明であると考える人もいますが、 私はこれはそういう証明にならないと思っています。かといって、一部の人が主張するように、脳内の現象として、脳生理学や精神医学 が説明できるとも思わないのです。つまり、科学的にはどっちとも決着がつけられない問題だと思っています」
この点に関するムーディの発言は実は微妙に変化してきている。科学的には、どちらともいえないというのが、ムーディの表向きの 基本的立場であることに変わりないのだが、その内実は変わってきている。いまでは、死後の生をほとんど全面的に肯定するかのような発言も している。
それを具体的にあとづけてみると、次のようになる。まず、『かいまみた死後の世界』では、ムーディは次のように書いた。
「本書を執筆している期間を通じて、わたしは自分の目的と立場が非常に誤解されやすいことを強く意識していた。殊に、科学的 精神を持っている読者には、本書を著したことが科学的研究とはいえぬことを、わたしが十分に心得ているむね、念のため申し上げておきたい。 さらに、私と同じ哲学者に対しては、死後の世界の存在を『証明』したなどという妄想を、わたしが抱いていないことを強調しておきたい。 (中略)こうしたことをここで述べるのは、わたしが自分の研究から一切の『結論』を引き出すことを拒否し、物理的肉体の滅亡後も 生命が存続しているとしている古代の教義を証明しようとしているのではないと断っている理由を理解していただきたいからである。しかし、 わたしは死後の世界の体験報告は非常に重要なものだと思っている。わたしの望みは、これらの報告を解釈するための、中間的方法を見つける ことである。つまり、科学的、あるいは論理的な証明が成立していないことを根拠に、これらの体験を否定せず、かといって、漠然とした 感情的な主張を展開し、こうした体験が死後の生命の存在を『証明』しているとする感情論にも走らない方法を見つけたいのである」
かなり用心深い表現で穏和などっちつかずの見解を表明している。しかし、『続・かいまみた死後の世界』では、次のように書くに いたった。
「わたしは死後にも生命があるということを、信仰の問題として受け入れるようになりました。そして、これまで検討してきた ような現象は、来世の明示であると信じています」
ただし、これには、
「心理上の問題であって、論理的な結論ではないことが分かってもらえるならば」
という但し書きがついている。つまり、証明はできないが、信じているということである。
最新作の『光の彼方へ』では、この立場がさらに強く押し出されている。
「私は、世界中の臨死体験研究者のほぼ全員に会い、その研究について聞いてきた。そのほとんどは、臨死体験とは死後の世界を かいま見ることだと心の底では思っているのは確かである。しかし科学者や医師としては、肉体が死んだ後も人間の一部は生き続ける という、”科学的証拠”がまだ提出できていない。このような証拠がないため、研究者は、自らの本心を明かすことができずにいる。(中略)
確固とした証拠がない中で、私は、自分の考えを聞かれることが多い。臨死体験は、死後の生命が存在する証拠なのか、 というわけである。それに対して私は、『そうです』と答える。
臨死体験について強く感じていることがいくつかある。そのひとつは、前に述べた、事実であることが証明できる体外離脱体験 である。肉体を抜け出し、自分の命を救おうとしている医者たちの姿を目のあたりにする人がたくさんいるが、これは、人間が肉体の死後も 生き続けることを示す、この上ない証拠ではなかろうか。
私は二十二年もの間臨死体験を眺めてきたが、死後の生命の存在を決定的に示す科学的証拠は十分あるとは思っていない。 しかし、それはあくまで科学的証拠のことである。心の問題は、また別である。この場合は、厳密な科学的世界観から離れた判断に頼る ことができる。しかし、私のような研究者に対しては、知識に基づいた分析が要求される。そのような検討を行った末、私は、臨死体験者 はあの世界をかいま見たのであり、別の現実界へ短い旅をして来た、と確信するに至ったのである」
これら一連の文章の中に、ムーディの死後の生に対する確信が次第に強くなってきたことが読みとれるだろう。
— 科学的にはどっちともいえないとおっしゃりながら、最近は、死後の生を確信するという立場をはっきり出すように なっておられますね。
「その通りです。しかし、それはあくまで自分の主観的判断としてです。自分の感じといってもいいかもしれません。 科学的に、あるいは論理的に何かが証明されたということではないのです。そもそも私は、この問題は科学やロジックでは最終的な 答えがでない問題だと思うのです。誰かがそれがあるかないかを科学的に証明してくれるのを待っているべき問題ではなく、それぞれの 人が、それぞれの信じるところ、感じるところに従って、決断を下すべき問題だと思うのです。そういう意味においてなら、私は死後の生 を信じています。しかし、それはあくまで私個人の問題で、そのことを人に説得しようなどとは思っていません」
—さきほどの話では、子供のときから、人が死ぬということは存在の消滅だと思っていた。死後の生があるなんて考えても みなかったということでしたね。リチー医師からはじめて臨死体験の話を聞いたときも、そう思っていた。それがいつどうして変わってきた のですか。やはり、臨死体験の影響によってですか。
「そうです。実をいうと、臨死体験の研究に入ったはじめの頃は、私はこれは幻覚だろうと思っていたのです。幻覚の原因は、 脳の低酸素状態がもたらしたものかもしれないし、あるいあh、生命の危機的状況の中で働く心理的防御機制が、恐ろしい目の前の現実から 自己を逃避させ、自己の願望を実現するようなファンタジーを作り出したものかもしれない。いずれにしろ、現実ではなく、幻覚だろうと 思ったのです」
—いまでも、そういう主張はかなりありますね。
「あります。しかし、現実に体験者たちの話を聞いていくと、これはそういう頭の中でこしらえあげた理論では、とても説明できない 現象だということがすぐにわかります。そういう説を述べる人は、みんな例外なしに、自分で体験者に会って直接話を聞いたことがない 人たちです。いろんな体験者に会って、長時間その体験談を聞くという実地調査をしたことがある研究者たちは、みんな、そういう 科学的説明では満足できなくなるのです」
—どうしてですか。
「第一に、そういう幻覚と臨死体験とでは、内容にあまりに質的なちがいがありすぎるということがあります。第二に、そういう科学的 説明では、どうしても説明しきれない要素があるということです。特に体外離脱です。体外離脱が幻覚ではなく現実であると考えないことには、 説明がつかない事例が沢山あるのです」
—たとえばどういう事例ですか。具体的な例をひとつだけでもあげてもらえませんか。
「私の友人で、ヴィーという女性がいあmす。彼女が急な胆のう炎で入院して手術を受けたとき、突然心停止が起きてしまいました。 医者たちが必死で蘇生の努力をしているとき、彼女は体外離脱して、天井のほうからそれを見ていました。医者や看護婦に話しかけようと しましたが、誰も彼女の存在に気がつかないし、声も聞こえていないのだということがわかって、彼女は病室の外にフワフワ浮いたまま 出ていきました。そして、病院の別の部分にある待合室まで行くと、そこに自分の娘のキャシーがいるのを見つけました。ところが、キャシー は、おかしな恰好をしていました。スコットランド製の大きな格子縞模様の肩掛けを二枚も羽織っていたのです。しかもその二枚が あまりにミスマッチングだったので、何でこの子はこんな妙な格好をしているのだろうと腹を立てました。それからその部屋を出て、 別の部屋にいくと、そこには義理の弟とその友人がいて、何か話をしていました。近よって聞くと、『本当はぼくは今日、ヘンリー伯父さん に会いにギリシャのアテネに行くところだったんだけど、ヴィーが死にそうだと聞いて、じゃあお棺をかつぐのに残っていなくちゃいけない と思って、アテネ行を中止したんだ』と話していました。
ヴィーは生き返ってから、そのとき自分が見たことが幻想だったのか、本当だったのかを調べてみました。すると、どちらもそのとき 見た通りのことが現実に起きていたのです。娘が格子縞の肩掛けを二つも羽織っていたのは、母親が急に病院で手術という知らせを聞いて 気が動転し、手近の洗濯ひもにぶら下がっていた肩掛けをパッとつかんで飛び出したからだということでした。義理の弟が話していたことも、 ヴィーが聞いた通りだったというのです。ヴィーも、その義理の弟も、私の友人でしたから、これは、私自身が確かめていることでもある のです。二人とも十分信頼できる人たちで、嘘やデタラメをいう人たちではないのです。そして、娘も弟も、そのとき手術室とはだいぶ 離れた部屋にいたのですから、ヴィーが本当に体外離脱してそこに行って見聞きしたのだと考えないかぎり、これは説明不可能なのです。 こういう例が、他に幾つもあるのです」

『臨死体験』下 第十五章 心理と論理の間 立花隆著 文藝春秋 1995年1月

更新2015年1月23日