今月の言葉抄 2014年7月

イエスの名称

これまでの章で述べてきたことの結論はこれである。ひとたび、イエスの人柄とその業についての福音書の報じているものが 分析されて、派生的(にあとから付け加えられたような)特質が排除され、イエスというおかたのいろいろの本質的な特徴が、当時の政治的、 また宗教的歴史の動きの中にはめ込まれるとき、ナザレのイエスは、一人のガリラヤのハシド(敬虔な人)として、大いに信頼のできる人格となって 現れてくるのである。さてここで問題となるのは、このように(イエスをガリラヤの一ハシドとして)定義した基本的な格付けは、はたしてそれだけで 十分なものなのであろうか。それとも、それにさらに何かを付け加えねばならぬものなのか。あるいは、全然別の説に置き換えねばならぬものか、 ということである。つまり別の説でいえば、旧約聖書やあるいは旧約以後のユダヤ教の伝承が終末的人物に与えたような特別な役割や機能をイエスに 与えることのなるのであろううか。この終末的人物への待望は、紀元第一世紀のパレスチナにおいて強烈になったものであった。
メシヤ(救い主)が来られるということは、その当時のユダヤ人たちの信仰の大切な一項目であったことは否定できない。それは、エリヤか それとも他の予言的な人物が、大いなるメシヤの出来事に役割を演ずるとの信仰によるものであった。けれどもこれらのメシヤとしてつかわされた者たちは、 相互の間に、特別の連なりがあるとの確信はあっても、これら相互の関連が実際にはどんな性格をもっているのか、その詳しいことはわかっておらず、 その問題は解決されぬまま論争が続いていた。
新約聖書がこの(メシヤ問題の)領域で種々な主張をなしていることは明らかである。だが本質的な問題はこれである。これらの主張に対して責めを負うべき 者は一体だれなのか。イエス自身なのであろうか。それとも、イエスの直接の弟子たちなのであろうか。それとも、その後のパレスチナのユダヤ的教会なのか。 それともギリシア化された異邦人教会なのであろうか。
少なくとも、一つの点は即座に明らかにすることができる。すなわち、最初の福音書記者たちが関心をもったのは、イエスの言葉や行いを記述していくことで あって、イエスのいろいろの名称を検討したり、宣伝したりすることではなかった、ということである。パウロやヨハネの文書は、(初期の諸福音書よりは)より 神学的な内容をもっており、神の永遠の救いの計画の中でイエスが果たしたと思われる役割について、一つの先取的観念をもっていたことを明らかにしている。 その先取的観念は、時が経つとキリスト教のいろいろの信条として形成され、キリスト教信仰の一切の意図や目的をすべて支配するものとなっていったのである。

『ユダヤ人イエス 一歴史家の見た福音書』 第二部イエスの名称・序 ゲザ・ヴェルメシュ著 日本基督教団出版局 1979年6月

更新2014年7月5日