イエス:最後の晩餐と十字架の日
さて、ここでもう一度、「四福音書」の戻りましょう。「四福音書」は一致して、イエス様が十字架にかけられたのは、ニサンの月の金曜日で、
この日が過越の祭り、そしてイエス様の遺体は、土曜日(安息日)のはじまる金曜日の日没前に葬られたと記されています。そうしますと、最後の
晩餐は金曜日の前夜すなわち木曜日の夜となりますが、パウロとヨハネによると、この木曜日にイエス様が十字架にかけられ、最後の晩餐はその前夜
ということになってしまいます。これを表にすると下記のようになります。
| 共観福音書 | ヨハネ福音書 |
最後の晩餐 | ニサンの月の14日夜 | ニサンの月の13日夜 |
十字架 | ニサンの月の15日 | ニサンの月の14日 |
復活 | ニサンの月の17日 | ニサンの月の16日 |
すなわち最後の晩餐を終わられて、オリブ山に行かれ、深夜に捕らわれ、アンナスの夜の尋問→2時ごろのカヤバの尋問→5時からの祭司長らの裁判と死刑の
判決→ピラトの前での第一の尋問→領主ヘロデにまわされる→ピラトの前での第二の尋問→死刑の宣告、むち打ち、茨の冠→ヴィア・ドロロサ→ゴルゴダ・・・
という順序ですが、これでは、ゴルゴタ到着を8時半頃と考えると、祭司長の裁判開始から3時間半しかありません。しかし、前章のタルムードの規定から言いましても
、聖書に記述されているさまざまな事柄からおおよその時間を計ってみましても、その全部が3時間半におさまることはありえず、また律法に厳格なパリサイ人
が、それをやぶってすぐ判決、すぐ死刑執行をしたということも、考えにくいことです。
では、どう考えたらよいのでしょう。まず考えられることは、イエス様への裁判と十字架におかかりになったことは、いわば公的な事件ですから、
これの記録が当時の公認の暦であるパリサイ暦に従って記されたのはごく自然のことですが、一方、最後の晩餐はイエス様の意志によるイエス様と弟子たちだけの
会食ですから、イエス様が、パリサイ暦に従って過越しの祭りをお祝いになるとは、まず、考えられない、ということです。としますと、最後の晩餐の日付は
、パリサイ暦でない、おそらくクムラン暦によく似た日付で記され、裁判と十字架は刑はパリサイ暦で記されたのではないか、といういことになります。
こう考えますと、『聖書』の記述は少しも無理がなく、また『タルムード』の裁判の規定とぴたり一致します。
重要なお祭りの日だけは旧暦(伝統的な)でいい、その前後の日は新暦でいう、こういうことは、伝統を重んずる民族では別に珍しいことではありません。
台湾であh今でお正月を旧暦で祝います。大体、太陽暦の2月の4日ごろですが、この人たちは、あくまでも旧暦の1月1日を祝っており、その祭りの間だけは
旧暦を使い、それが終わると、また太陽暦にもどります。当時のイスラエルには、まず聖暦と民暦があり、クムラン暦、サドカイ暦、ガリラヤ暦等があったのですから、
以上のような両者を併用する日の表示があっても、少しも不思議でないわけです。
パリサイ暦で計算していきますと、ニサンの月の14日の夜からが金曜日になるのは、紀元30年で、この日を今の太陽暦でいいますと、4月7日
になります。ところがクムラン暦では、この年のニサンの月の15日(この日は必ず水曜日は4月7日になります。おもしろいことに、金曜日はパリサイ暦と同じく
金曜日ですが、ただしクムラン暦の日付ではその金曜日の日付は18日になります。
ここでちょっと太平洋戦争の起こったのことを思い出してください。その日が12月7日か8日かという問題の解答と同じような言い方をしますと、
「イエス様が十字架におかかりになった日は、ニサンの月の中ごろの金曜日(これは『四福音書』で一致)で、この日はパリサイ暦では15日、クムラン暦では
18日になる」ということになります。いわば同じ曜日を表す日付が別々なのです。
アニー・ジョーベール女史は、これを、太陽暦を基準に次のように整理しました。
太陽暦4月4日火曜日(日没からクムラン暦の15日水曜日すなわちクムラン暦の過越しの祭り、ただしパリサイ暦では13日水曜日) — 最後の晩餐・
イエス様の捕縛・アンナスの尋問・ペテロのいなみ・夜明けとともにカヤパのもとへ
4月5日水曜日 — 朝、祭司長たちの裁判、一晩おいて
4月6日木曜日(日没からはパリサイ暦の15日金曜日。すなわちパリサイ暦の過越し祭り) — 早朝、祭司長たちの第二裁判、そして判決言い渡し、ピラト
への引渡し、ピラトからヘロデへまわされる。
4月7日金曜日 — ピラトの第二の訊問、むち打ち、茨の冠、死刑の決定、ヴィア・ドロロサ、第三時(9時)十字架につけられる、九時(午後3時)
息をひきとられる、日没前の埋葬
以上のような経緯になります。一言でいえば、イエス様は過越しの祭り(クムラン暦の)に最後の晩餐をされ、過越しの祭り(パリサイ暦の)に
十字架上の死をとげられたわけです。そしてジョーベール女史のこの見方は、今では多くの学者に支持されています。・・・
『山本家のイエス伝』山本七平・山本れい子・山本良樹著 山本書店 1996年12月