イエスの言語
新約聖書との関連で死海写本が果たしつつある最も重要な貢献の一つは、前200年から後100年にかけてのパレスティナの言語状況について、それらが新鮮な洞察を
与えてくれることである。
大多数の写本は、旧約聖書の主要言語である古典的な聖書ヘブル語で書かれている。これに対し、少なくとも三つの写本 — 「銅の巻物」、4QMMT および
未公開の偽典断片 (4Q229) — は、「ミシュナ・ヘブル語」と呼ばれる、より口語的な旧約聖書以後の言語で書かれている。
クムラン写本の中には、ヘブル語と関連の深い言語であるアラム語で書かれているものも多い。その中の少数はナバテア方言によっているが、大多数はパレスティナ
のアラム語で書かれている。さらに、旧約聖書の最古のギリシャ語訳である七十人訳の一部を含む少数の写本も存在する。
死海写本におけるこれら三つの言語の並存は、聖書、特に新約聖書の研究にとって、示唆に富んでいる。
死海写本の発見まで、前200年から後100年にヘブル語またはアラム語で書かれた文書は実質的に発見されていなかった。現存する文書の大多数は、
ギリシャ語やその他の非セム語への翻訳であり、「セム語の沈黙」(Semitic silence)とでも称すべき状況であった。例外は、骨入れ(納骨棺)や墓石に刻まれた
短い(ヘブル語あるいはアラム語の)碑文のみであった。この状態に転換をもたらしたのは、1890代のカイロ・ゲニザにおける写本の発見である。カイロ・ゲニザ
からは、旧約外典「ベン・シラの知恵」(「集会の書」)のヘブル語版、旧約偽典「レビの遺訓」のアラム語版、およびヘブル語の「ダマスコ文書」が発見された。
しかし、これらの文書のカイロ・ゲニザ写本は、後代の文法と語彙が混入した中世の写本であり、多くの学者はそれらが本当に古代のものであるか否かを疑っていた。
クムランの発見によって状況は一変した。古代パレスティナの複数の声が再び聞かれたことにより、「セム語の沈黙」は「セム語の不協和音」(Semitic cacophony)
に変わった。たぶん最も驚くべき事実 — 少なくとも非ユダヤ人学者にとって — は、大部分の写本がヘブル語で記されていたことである。クムラン写本
発見以前には、当時ユダヤ人の間ではアラム語こそが圧倒的に優勢な言語であり、ヘブル語の知識は衰退していたという見方が、ほとんど常識となっていた。もっとも、
ユダヤ人学者の中には、ヘブル語はこの時期にも使われていたと論じる者たちもいた。彼らは、「中間時代」のいくつかの文書(例えば「第一マカベア書」)
の原語はヘブル語であったことを示す明らかなしるしを指摘した。彼らはまた、ミシュナ・ヘブル語は話しことばであり、一部に言われるように後代の人工的・
学者的な創造物ではない、と主張した。
死海写本は、これらの学者が正しかったことを示した。クムラン発見後には、後一世紀のユダヤ人の言語はヘブル語のみであり、それをイエスと彼の弟子たちも
話した、と結論する研究者さえ現れた。エルサレムには、「共観福音書研究エルサレム学派」(Jerusalem School of Synoptic Research)と呼ばれる学者集団がある。
彼らは、イエスはヘブル語のみを話し、福音書の最初の形はヘブル語で記されていた、と考える。このような説は、1947年以前には不可能であっただろう。
・・・
このように死海写本は、後一世紀のパレスティナにおいて三つの言語が使われていたことを証明したが、それらを誰が使ったのか、また、いつ、どのように、
どういう比率で使ったのかという点は、教えてくれない。ミリクは、死海写本はミシュナ・ヘブル語が普通の話しことばであったことを「疑問の余地なく」証明
していると考えたが、それとは対照的に、フィッツマイヤーは次のように論じている。
後一世紀のパレスティナで最も普通に使われた言語はアラム語であったが、パレスティナの多くのユダヤ人は・・・ギリシャ語を、少なくとも
第二の言語として用いた。・・・しかし、一部のパレスティナ・ユダヤ人は、(それほど普及していなかったとはいえ)ヘブル語も使用した。
大多数の専門家はフィッツマイヤーと同意見だが、コンセンサスは得られていない。真に問題となるのは「それでどういう違いが生じるのか」
という点であるが、イエスが実際に用いた言葉を再構成しようとする学者にとっては、途方もない違いがある。近代以降の新約聖書研究の多くは、
ユダヤ人は単一の言語を用いたという蓋然性に基づいてきた。彼らが実際にバイリンガルであったなら、あるは三つの言語(ヘブル語、アラム語、ギリシャ語)さえ
使用したとすれば、その研究の多くを見直さなねばならないだろう。
『死海写本の謎を解く』E.M.クック著 土岐健治監訳 太田修司/湯川郁子共訳 教文館 1995年