今月の言葉抄 2014年1月

「悔い改め」はどこから来たのか

イエスは40日の断食の後、悪魔(サタン)に試みられ、その誘惑に打ち克ち数々の奇跡を起こしていきました。その教えの第一声は「悔い改め福音を信ぜよ」 だったと記録されています。(「マルコ」1:15)
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 (新共同訳「マルコ」1:15)
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 (新共同訳「マタイ」4:17)
この「悔い改め」という日本語は、新約聖書ギリシャ語のメタノイアの訳語です。キリスト教が入ってきたことでできた言葉です。それまでの日本語の世界 にはなかった心持といってよいでしょう。
イエス自身はユダヤ人で、ヘブライ語とアラム語を使い、ギリシャ語は話さなかったようです。イエスのオリジナルの言葉はおそらく「シュプー、(神に)向き直れ」 だったのですがこの言葉が失われ、後にギリシャ語で記録されたメタノイア(心を変えること、回心)が、キリスト教の核の言葉として流通していきました。イエスの ヘブライ語のメッセージと、後世のギリシャ語の記録との間には見逃せない違いがあります。今回はヘブライ語聖書に基づいてギリシャ語のメタノイアのおおもとを 学び、キリストのメッセージを理解したいと思います。
・・・
ヘブライ語聖書の原文から、イエスのメッセージを捉えなおしてみる試みが、この講座「キリストの理解」です。私の見聞きしてきた範囲から思うことですが、 人間みな生まれながらに罪の中にいるのではなく、生まれながらに清いのではないでしょうか。・・・
心からの悔い改め、それも個人の内心の問題に踏み込んだ内容は、ヘブライ語聖書では厳密にはエゼキエル書第18章の一箇所しかありません。以下原文に忠実に 訳してみます。
それゆえ各人の行き道に応じて私がおまえたちを裁く、イスラエルの家よ、とわが主ヤハウェは言われる。向き直り向き直れ、おまえたちの全ての背きから。 そうすればおまえたちに罪のつまづきは無くなるだろう。全てのおまえたちの背きをを自分の上から投げ出せ。それはおまえたちが犯した背きである。自分に求めよ、 新しい心と新しい霊を。なぜ死ぬことがあろうか、イスラエルの家よ、私は誰の死をも喜ばない、と主ヤハウェは言われる。おまえたちは神に向き直り、生きよ。
「向き直れ」は、合計3回でてきました。人間の犯した背きから、神に向き直れという預言です。ヘブライ語は繰り返しを好む言語で、「歩きに歩いた」とか、 「向き直り向き直れ」という表現をします。日本語でも「どんぶらこ、どんぶらこ」といった表現があちこちに見られます。「向き直り向き直れ」という繰り返し によって、意味を強めているのです。
この「向き直れ(シュープー)」は、ほかの預言のエレミヤ書にも書かれていて、おそらイエス時代にも使われていた言葉です。エゼキエル書のこの言葉には、 「人間が生まれつき罪を背負っている」とか、「アダムから罪が入ったから人間はすべて罪深い」といった考え方はありません。とてもシンプルに、体の向きを直す と言う意味が中心です。「原罪から救われるために神に向き直れ」などとは全く言っていないことに注意してください。つまり「人間は生まれながらに罪の中にある」 という考えはありません。
エゼキエル書18章で問題になっているのは、イスラエルが犯した背きの内容と、そのひとりひとり決断、そして個々の魂の行き先です。とくに問題とされている 「おまえたちの背き ピシュエヘム」とは、他の神々と姦淫し神の掟に従わなかったことです。その状態からひとりひとりが立ち直り、悪事から離れて、魂の死から 逃れることをエゼキエルは勧めているのです。

『キリストの理解 ヘブライ語聖書から読み解く』 山口勇人著 イザラ書房 2008年7月

更新2014年1月25日