イエスの生きた時代、どんな言葉を話していたか
「主」は、ユダヤ・ガリラヤ・サマリヤの男・女・子供に教えを説く際にはアラム語を使った。
紀元一世紀初頭、アラム語は俗語・口語であった。「主」は学者・神学者・(通称)律法学者(ヘブライ聖典を研究する読み書きのできる者)
等を相手にする際にはヘブライ語を使った。
用語の問題に関しては「列王記下」(18:13)を」再読しよう。イザヤの巻物(36-37)にも同じ話が出てくる。
ヒゼキア王の治世第14年に、アッシリアの王センナケブリは、城壁を廻らしたユダヤの全都市を攻撃し、攻略した。
(センナケブリの在位は前701-681年、アハズの子、ユダの王ヒゼキヤの即位は前716年)。
アッシリアの王は最高司令官、宦官の長、侍従長をエルサレムのヒゼキヤ王の許に送った。一行は大軍を引き連れて、ラキシュからエルサレムに上り、現地に到着した。一行が王に呼ばわると、ヒルキヤの子なる宮廷長エルヤキム、
書記官シェブナ、アサフの子なる王国の史官ヨアが一行を出迎えた。
侍従長は言った《汝等ヒゼキヤに言うべし、アッシリアの王なる大王、かく言い給う、汝が恃(たの)むものとは何ぞや、と》。
エルサレムの城壁に陣取るヒゼキヤ王の名代三人に大音にて伝えられる侍従長の長い伝言が続く。
同名代侍従長に答えて曰く(同18:26)《願わくば僕等にアラム語にて語り給え。我等、アラム語を解するがゆえに。城壁の上なる民の聞けるところにて
ユダの語(ことば)もて我等と語るなかれ》。
ヘブライの王ヒゼキヤの名代三人は、センナケリブ王の名代なる侍従長が遠くから呼ばわる言葉をヘブライの民が聞いて理解するのを望まない。
民はユダヤの言葉、もしくは現地の地域語であるヘブライ語(ここでいうユダヤ語)を解するのである。
無論、センナケリブの名代は相手の要望とは正反対の行動を取る(18:27)。
侍従長は言う、《我が主君、ただ我を汝の主君と汝に遣わしてこの言葉を述べしめ給うならんや。むしろ城壁の上に座して汝等とともに
己の大[便]と小[便]を飲み食いするべき者等に対してならずや》。
而して侍従長は立ったまま、ユダヤ語すなわちヘブライ語にて呼ばわり、こう言い放った、《大王なるアッシリアの王の言葉を聴くべし。王かく言い給う、
ヒゼキヤに欺かるるなかれ、ヒゼキヤは汝等を我が手より救出し得ざるなればなり、と》。
前8世紀のヒゼキヤ王の時代、民はヘブライ語を解しかつ話したが、アラム語は解さなかったのである
数世紀後、バビロン捕囚後のキュロス治下、(前558-526)にあって、前5世紀に「ネヘミヤ記」を書くネヘミヤは、捕囚後のユダヤ人の半数がすでにユダヤ語を亡失した
のを嘆いている(13:24)。
紀元70年のエルサレム攻略以前、ユダヤで、ガリラやで、いかなる言語が、否、されに正確に言えば、いかなる諸言語が話されていたかという問題は、依然として
問うに値する問題である。民は確かにアラム語を話していた。学者、神学者、聖典の読者は確かにヘブライ語に通じ、同語の読み書きを実践していた。問題は、
依然として問うべき問題は、少なくとも教養人の間におけるヘブライ語の口語としての普及度である。当時、かかる人士はエルサレムのおいて大いに数を増していた。
エルサレムは70年に崩壊したが、すでに世界で最も識字率の高い都市であったはずである。・・・
『ヘブライ人キリスト 福音書はいかにして成立したか』(水声社 2013年10月 クロード・トレスモンタン著 道躰章弘訳)
・・・(管理人)