今月の言葉抄 2012年10月

あぜ偶像崇拝してはいけないのか

大澤 さて、ここでちょっと戻ってお聞きしたいことがあります。偶像崇拝の禁止についてです。先ほどヴェーバーの 説もありましたが、おそらく日本人にとって、これもいまひとつピンとこないことだと思います。なぜそこまで偶像が厳しく禁止されるのか。
まあ、偶像というのは間違った神様ということですから、もちろん崇拝してはいけないわけですから、ならば偶像とは何か、と考えてみると、たいていのものは偶像です。目に見えるもの、さらに一般に感覚や知覚で捉えられるものはみな偶像です。だから石像のようなものを崇めても、だれか人間を崇拝しても、すべて偶像崇拝ということになります。神は、結局、「これだぞ」か「ここにいるぞ」とか示すことはできない。だから、預言者が間に入ってくれないと、神と関係することができないわけです。
ところで、神とは何か、と考えてみます。すると、神は、存在するものの中で最も存在するものと言いますか、最も強い存在ですよね。たとえば「ヤハウェ」という名も  — それが意味するものについては多様な解釈がありますが — 一つの有力な説によれば、「存在するもの」というような意味になるわけです。要するに、 神とは、存在の中の存在というか、最も強烈に存在するもの、普通の存在者を超えて存在するものです。
では存在ってなんだろうか。ちょっと哲学的に考えてみましょう。ぼくらが何かが存在すると言えるのは、どういうときでしょうか。たとえば今ここにコーヒーカップが存在すると思う。sれは見ることもできるし、触ることもできるからですよね。あるいは、橋爪さんは自身は存在する。話もできるし、触れることもできる、握手もできる。でも、じゃあ鏡に映っている橋爪さんは存在するんだろうか。これはちょっと微妙になってきます。見えることは見えるけれども、握手したり触ったりできないから、少なくとも現物の橋爪さんよりはやや存在の濃度は下がる感じになります。では、夢の中の橋爪さんはどうだろうか。それは、かなり存在として希薄になる。それは、ぼくにとってしか存在しないし、夢から覚めたらぼくにとってさえも存在しない。
このように、存在に関しては、まさにそれを存在として認めうる濃度のようなものがあります。存在と不在の単純な二項対立ではなくて、強い存在から不在までの間にはレベルの差がある。単純に「実在しないもの」と言われるものの中でも「ユニコーン」のように少なくとも想像できるものと、「丸い三角形」のように論理的にも矛盾しているものでは、存在のレベルが違います。
このように考えたとき、偶像崇拝の厳禁とともにある神というのは、ようはどんな方法によってもその存在を確認でいない神、ということになります。たとえば、橋爪さんという人の存在については、「俺は橋爪さんに会ったことがある」と言えばすみます。そしてもし、誰も橋爪さんという人を見たことがなければ、橋爪さんの存在(実在)そのものが疑われてしまうわけです。ところが神については、逆で、「おれは神を見た」と言ってしまえば、それは本物の神ではなくて、偶像になってしまいます。神に関しては、その存在を確認するうえでのあらゆる方法が禁じられている。預言者でさえも、たとえばモーセでさえも神をまともに見ていない。そうすると、ふつうの意味では存在から最も遠く隔たっているものが最も存在している、という逆説になってしまうのです。偶像崇拝を厳しく禁止するということは、こいう逆説を受け入れるということです。
逆に言うと、他の宗教が、ユダヤ教から見ると偶像崇拝のようなことをやるのは、本来であったら存在しているとは実感できない神に関して、人々に、何とか、それが存在していると思わせなくてはならないからではないでしょうか。たとえば、像を彫ったりして、神というのはこんなものだ、と見せたり、あるいは、何かの物体や祠や樹やらを指して、神はここに宿っている、と言ってみたりする。
もう一度繰り返すと、偶像崇拝の禁止というのは、存在の否定が存在の極大値だよ、という感受性に規定されている。これは、やはり非常に理解し難い。いかがですか?
橋爪 ずばり本質を突く素晴らしい質問ですね。まさに一神教を理解する急所です。
さて、二つぐらいのことを答えたい。
まず、一神教はそんなに特別じゃない。特別だけど特別じゃない、ということを議論の前提として言いたいです。
一神教 monotheism は、多神教 polytheism と対立している、とふつう言われる。でも、よく考えてみると、もうし少違ったところに対立軸がある。一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)のほかに、古代にはいろんな宗教がほぼ同時に興っているでしょう。インドでは、仏教。中国では儒教。これらが典型的ですが、共通点があって、それまでの伝統社会の、多神教と対立しているんです。
伝統社会の多神教は、まあ日本の神道みたいなもので、大規模農業が発展する以前の、わりに小規模な農業社会か、狩猟採集社会のもの。素朴で、自然とバランスをとっている人びとの信仰なんです。山林原野もあって、その土地に育った人びとが大部分で、よそから移ってきた異民族はあまりいない。だから、自然と人間は調和し、自然の背後にいるさまざまな神を拝んでいればすむ。
日本、は先進国としてはめずらしくこんな信仰が現在まで続いているんですけど、これほど幸運な場所は、世界的にみても、そう多くない。
それ以外のたいていの場所ではどうなるかというと、異民族の侵入や戦争や、帝国の成立といった大きな変化が起こって、社会が壊れてしまう。もとの社会がぐちゃぐちゃになる。ぐちゃぐちゃになってどうするか、というのが、ユダヤ教とかキリスト教とあ、儒教といった、いわゆる「宗教」が登場してくる社会的背景なのです。そういう問題設定が、まず、日本にはない。だから、そうした宗教のことがわからない。
で、ぐちゃぐちゃになっても、人間が人間らしく連帯して生きていくにはどうしたらいいかの戦略なんですけれど、一神教と仏教と儒教にあ、共通点がある。それは、もう手近な神々に頼らないという点。神々を否定している点です。
まず、仏教をみてみると、仏教は、インドの神々がたくさんいるインド社会のど真ん中で生まれた。それにしては、神々の関心がないでしょう。たしかに仏教の経典には、インドの神々が出てきます。梵天とか帝釈天とか毘沙門天とか、「○○天」というのがインドの神々。ぜんぜん主役でなく、脇役にされてしまっている。その役目はもっぱら、ブッダが偉大であると賛美すること。ブッダの応援団です。
神々よりずっと偉大な、ブッダという存在がいる。なぜ偉大かというと、真理を覚ったから。人間がその能力を最大限に発揮して、この宇宙の真理を究めたから。神は覚っていないから、価値は低い。「覚り」は、人間が宇宙をどう理解するかという問題であって、神々の出番はないんです。仏教は、自然を、物理的因果関係のかたまりとみて、その法則性をい認識しようとする。神秘はどこにもない。宇宙、生態系、自然。そういう自然界の真理に、もろに人間の知性が接触しているんですね。とても、合理的なんです。
儒教はどうか。儒教は、政治家のリーダーシップを重視します。政治家が、自然の管理や社会のインフラの整備を行ない、人びとの幸せに責任を持つ。この考え方は、政治学・経済学そのものですから、結果を合理的に予想できるもので、神秘的なところは少しもない。雨乞いとか占いとか、あんまり関係ない。まあ最初は「まつりごと」というぐらいで、祭政一致で、占いの要素もあったけれども、だんだん少なくなった。どんどん脱魔術化されて、政治技術がマニュアルの還元され、神秘的な要素は儒学から放逐されていく。神々はいなくなって、天だけが残った。天は人格を持たない。悪さもしないし。魔術とも関係がない。
一神教もほぼ同じです。一神教は、神々との闘争の歴史で、そうした神々は神ではない、全部ウソだというのです。いっぽう一神教の神ヤハウェはどこにいるかというと、この宇宙の外側にいて、ありありと存在している。こういうものなんです。神々は、もし存在しているとすれば、この世界の中に存在している。すべて存在しているものは、ヤハウェがつくった。さもなければ、人間がつくった。ヤハウェは神々をつくるはずがありませんから、神々は人間がつくったものです。ゆえに、偶像です。人がつくったものを、人が拝むことを、偶像崇拝という。これは、大きな罪になる。ヤハウェに背き、自分を拝んでいるのと同じだからです。
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偶像崇拝がなぜいけないか。大事な点なのでもう一回確認しておきます。偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だからです。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝の最もいけない点です。
 
余談ですが、偶像崇拝がいけないという論理が、マルクス主義にもあるでしょう?資本主義がいけないのは、疎外 → 物象化 →物神化というプロセスによって、人間の労働がほんとうの価値の実体なのに、それが商品になり貨幣になり資本になり、物神崇拝されるに至って、自分がつくりだしたものをそれと知らずにあがめている転倒した世界だからです。この論理はユダヤ教、キリスト教の発想とそっくりだ。
マルクス主義の資本主義批判を参考にすると、一神教の偶像崇拝批判がよくわかる。偶像崇拝がいけないのは、 God ではないものを崇拝しているからです。それは人間の業(わざ)なんです。人間をあがめてもいけないし、人間がこしらえた偶像を崇拝してもいけない。

『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書  2011年8月著者 橋爪大三郎・大澤真幸)
久しぶりに、大変面白い読書をした。二人の社会学者の対談形式で、ユダヤ教、キリストの出現、キリスト教の成立の事情が語られている。日本人にはなかなか理解が難しい分野であるが、二人の関心は、西洋を理解するにはキリスト教の理解が欠かせないという認識で一致しているので、問題提起もわかりやすい。 後記でご本人が楽しかったと言っているので、問題の核心に迫れた対談と思ったようである。二読三読の価値あり。(管理人)

更新2012年10月7日