今月の言葉抄 2011年2月

がんとは何か

永田氏(『がんはなぜ生じるか』の著者永田親義氏)にいわせれば、がんの病因研究はもう百年以上にもわたってつづき、いまなお世界中で膨大な研究が日夜積み重ねられているのに、まだ誰も肝心の疑問に答えていない。
がんとはそもその何であるのかというがんの正体、何ががんをもたらすのかという原因、それに、ある要因がどのようにしてがんをもたらすのかというがんの発生メカニズム、こういったがんについてまず答えらるべき最も基本的な疑問がまだ答えられていないのである。
がんについてまだ何もわからないというわけではない。概略、がんとはこういう病気であるという大きな見取図は描かれている。しかし、細部になると、混沌としている。
がんは基本的に細胞の病気である。どんな人間もおよそ六十兆の細胞でできている。六十兆の細胞がそれぞれしかるべき働き場所を得て全体が調和のとれた秩序ある活動をしていれば問題はない。しかし、突然、周囲の細胞と無関係に勝手に行動する一群の暴走族のような細胞があらわれてくる。それががんだ。がんは異分子なのだ。調和のとれた全体(正常細胞群)を自己とすすれば、非自己である。しかし同時に生物学的には自己の一部でもあるから、初期過程では簡単に見つからないし、それだけを取りのぞく手段もない。
正常細胞はみな新しく生まれては一定時間後死んでいく。生と死のサイクル(細胞周期)を繰り返していく。そのような時間軸上の予定運命に従って生々流転していくのが正常細胞であるのにたいして、これらのがん細胞は、細胞周期を追うメカニズム(遺伝子のプログラム)がこわれているから、簡単には死なない細胞になっている。それががん化ということだ。DNAに書きこまれた予定運命(生死のパターン)とか、自己複製(生きるということは細胞レベルで自己複製をつづけることだ)プログラムに狂いが生じて、正常細胞の生き方から逸脱してしまうのががん化だ。
その結果、がん細胞は細胞分裂をいつまでも繰り返すという意味で、無限の増殖能力を獲得した細胞といわれたりする。いつまでも生きつづける不死性を獲得した細胞といわれることもある。がん細胞とは、そのような特殊な生き方をするようになった細胞群のことだが、なぜどのようにしてそのような狂った細胞群が正常細胞の中に生まれてくることになったのかという原因論に話が及ぶと、議論が百出してとどまるところを知らない。
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ところで、ここで述べたホメオスタシス(恒常性維持)という概念を使うと、そもそもがんとは何であるかということをわかりやすく説明することができる。
生体は腎臓を守っているたぐいのホメオスタシス以外にも、それとは全くちがう種類のホメオスタシスが維持されているシステムでもある。なかんずく、最も大切なホメオスタシスが肉体の細胞数を一定に保つことにある。
ヒトの肉体は基本的に六十兆の細胞からできている(もちろん多少の個人差はある)がその数はほとんど一定である。どの細胞も生まれて一定時間がたつと死ぬ。細胞が死ねば、死んだ細胞の数だけ新しく生まれる細胞ができて、死んだ細胞の機能を引きつぐ。
たとえば、風呂に入って体を洗えばアカが出る。あれは死んだ細胞だ。こすり落とされたアカの下から新しい肌があらわれる。あれはしばらく前から表皮のすぐ下にあった新しい細胞だ。その下にも何層かの新しい細胞がある。その一番下の基底層と呼ばれる部分で、間もなくまっさらの新しい細胞が細胞分裂によって生まれてくる。新しく生まれた細胞は、順次階層を下から上に上がっていき、最後は表面に出てアカとなって死ぬ。
これが新陳代謝と呼ばれる現象だ。新陳代謝はあらゆる生体システムで、生命を維持しつづけるために使う基本的な仕組みである。大きくいえば、人間社会を構成するさまざまな組織がその活性を維持するために各自行っている人事を通じての世代交代もこれと同じようなことだろう。
体内のあらゆる部分で、古い細胞が死んでは新しい細胞に置きかえられていく。その際、大事なのは、細胞数を基本的に変えないということである。生と死を厳格に管理する(死んだ細胞の数に等しい数だけ新生細胞に生命を与える)ことで、細胞数のホメオスタシスは維持される。生まれる方の管理は「細胞は細胞分裂によって新しい細胞を生みだす」という原理が守られている限り、既存の細胞とキッチリ同数の細胞が生まれるわけだからさしてむずかしくない。
生体の細胞の場合、死のほうも、アポトーシスという生物学的集団死現象によって管理されている。細胞の数が必要以上に多くなると、細胞は集団的に死ぬのだ。集団死は初期の発生・生育過程でよく起きるが、中期・末期でも、さまざまな原因で起きる。生き過ぎた細胞がアポトーシスによって集団的に死ぬのはもちろん、なんらかの理由で、細胞数のホメオスタシスが維持されないような事態が発生すると、増えすぎた細胞に集団死をとげさせられる。だから最初期のがんの大多数はアポトーシスで死に、がんの発病にいたるものは少ないと考えられている。アポトーシスは細胞数のホメオスタシスを維持する上でいちばん大切な仕組みともいえる。
この細胞数一定のホメオスタシスをこわしてしまうのが、がんなのである。がん細胞はふえるだけで、死なない。本来ならアポトーシスで死ぬはずの細胞が、死なないで生きのびてしまった(そういう能力を維持してしまった)のががん細胞ということができる。
いまがん研究でいちばん集中的に研究されているポイントの一つがここのところだ。いかようにしてがん細胞のアポトーシス逃れが起きるのかである。アポトーシス逃れはがん発病のキーと考えられている。アポトーシス逃れを封じることができたら(つまりがん細胞に集団死をとげさせることができるようになったら)それこそがんの特効薬になること必定である。
がんは古い細胞を置きかえるために出現した細胞ではなく、突然変異的に全く新しく出現する細胞塊だから「新生物」と呼ばれる。「悪性新生物」というのががんのもう一つの名称である。「悪性」とはどういうことかというと、主として正常細胞にあるまじき、がん細胞の三つの特質、無限の増殖能力(アポトーシス逃れ)、正常細胞の中にどんどん入り込んでいく浸潤(インベージョン)能力、とんでもないところに飛び火して、出先でもうひとコロニーを作ってしまう転移能力をさしている。がん細胞はその成長過程においてそれ自体が恐ろしい毒素を出すというような悪さはしない。

― 『がん 生と死の謎に挑む』立花隆 文藝春秋 2010年12月 NHKスペシャルのDVD付き

更新2011年2月28日